●『ラカンとポストフェミニズム』(エリザベス・ライト)。なんか胡散臭いタイトルだけど、とてもよい本だった。『アンコール』が翻訳されていない以上、ラカンの性別化の議論を知るためには、こういう本を読むしかない。それにしても、この本に何故、竹村和子の「解説」が載っているのかがよくわからない。「フェミニズムの未来はラカンとともにある」とするエリザベス・ライトに対して、ラカンみたいないんちき臭い男性中心主義者にだまされるなとでも言いたげな竹村和子のテキストとは完全に対立していて、これは「解説」ではなくて「批判」じゃん、と思ってしまう。この「解説」を読むと、ラカン精神分析がいかに「嫌われている」のかが分かる。
●以下、性別化についての引用、メモ。ここで説明される「男性」「女性」は、象徴界への参入時に《主体性が引き裂かれることによって性が振り分けられ》た結果としての性別であって、必ずしも生物学的なものとは一致しない。あと、精神分析における「他者(大文字の他者)」という概念を《実現することのない約束を介して構成的な欠如を乗り越える構造》と記述するのは、すごく上手い説明だと思った。他者という構造が《ある種の欺瞞を介して働く》という指摘は、ニーチェクロソフスキードゥルーズ等とも繋がる。女性の享楽についての説明は、精神分析を「否定神学」とすることが間違っていることをも示しているだろう。
ラカンのいう主体の重要な特徴は、主体が言語という主体を結合させると同時に分断する体系に入るという、まさにそのことによって疎外されるということである。主体は、ものを規定していくシニフィアンのネットワークに捕まるやいなや、固定された同一化と現実に存在するものとに分断される。象徴界(シンボルの世界)に入ると、誤った認識をする意識「自我(moi)」と、病的症状や言い間違いなどといった意識の隙間にしか現れない「わたしなるもの(je)」とに、否応なく引き裂かれる。ラカンにとって、疎外は主体そのものを構築する条件である。主体性が引き裂かれることによって性が振り分けられ、象徴的なジェンダーが授けられるのだ。》
(以下は「性別化の図」の解説。表示出来ないので、符号は省略する。)
《男性の存在論的命題は「ファルス機能に対して「ノー」と拒絶する実体xがある」と書き換えられるし、男性の普遍的命題は「すべてのxはファルス機能に服従している」と書き換えることができる。
女性の側にも、同じくふたつの対照的な命題がある。女性の存在論的命題は「ファルス機能に対して「ノー」と拒絶する実体xはない」と書き換えられるし、女性の普遍的命題は、「すべてのxがファルス機能に服従しているわけではない」と書き換えることができる。
ファルス機能は象徴界によって行われる去勢のことである。こうした過程を経た結果、ファルスは禁じられた享楽--すべての主体に禁じられた衝動充足の大部分--を意味するようになる。この犠牲は象徴界に入る代償として、男女の両方に、同じように求められる。それというのも、享楽に限界を設けないかぎり、主体になることは達成できないからである。》
《男性の側では、ファルスと同一化しようとする試みがなされる。つまり、自分自身を禁止命令を出す支配者だと想像するのである。しかし、こうした試みは、歴史上の一時期には実際に効果を発揮したかもしれないが、単なるポーズにすぎない。普遍的命題は、すべての男性はファルス機能に屈する、つまり象徴的な去勢を甘受しなければならないと明言しているのである。
この規則はひとつの例外によって、すなわち去勢を免除されている人が一人だけいるという存在論的命題によって、保証されている。去勢された人たちの集合は、例外があってはじめてひとつにまとめられる。ラカンはこの例外をラッセルの数学的パラドックスと関連づけている。このパラドックスとは、集合を名づけ集める人はその集合の外部に位置しており、自分が定義しようとしているものに定義されることはないというものである。ラカンの場合、この規則の例外は、フロイトの『トーテムとタブー』における原父、自分の享楽のために犠牲をはらわなかったひ父親の神話と結びついている。これは、象徴界が影響を及ぼす幻想、享楽は最終的には完全に回復されるという幻想を表象している、と解釈することができる。》
《女性の側はどうかというと、女性は「必ずしもすべてが」ファルス機能と同一化することは「ない」。女性はファルス機能に対してイエスかつノー、イエスまたはノーと答える。女性の公式には、女性を全体化することの決定不能性と不可能性が示されている。女性性は、男性性のように普遍的な機能としてまとめることはできない。だからこそ、「必ずしもすべての」女性がファルス機能に屈服するわけでは「ない」というわけである。これは、女性は象徴界に「まったく入っていない」という意味ではなく、女性の側には普遍的な肯定的命題はありえないという意味である。女性の側は存在するが、男性の場合のように、輪郭のはっきりしたひとつの集合として存在するわけではない。だからこそラカンは、「絶対的な女性は存在しない(「絶対的」が斜線で消されている)」といった誇張した表現を使っているのだ。》
《図の下の部分が示しているように、女性には、それに加えてさらなる可能性がある。つまり、女性はファルス機能に服従することによってたしかに去勢されてしまうが、同時に、斜線で消された他者というシニフィアンS(A)--Aは斜線で消されている--とも関連づけられるのだ。「A」は他者を表し、斜線は他者のなかの隙間や欠如を表している--象徴界で約束された報酬が保証されていないことを認識している印である。このように、女性は象徴界の内部に全面的に入っているわけではないので、その結果、それを補足する享楽を味わうことができるのだ。これはファルス機能に課せられた去勢とは無関係のもの--去勢が忘却している享楽--である。》
ラカンの思想における他者は、社会人類学カルチュラル・スタディーズなどの言説で言われる他者ではない。それは別の人や集団のことではない。精神分析においては、他者は個人とは関係なく、自律性をもったひとりひとりの自己が幻想として扱われる象徴体系として論じられる。他者とは、現実を決定したり、私たちの選択を指図したりするようなものではなく、実現することのない約束を介して構成的な欠如を乗り越える構造である。すなわち他者は、もし受け入れられて利用されないと、自己と社会に悲劇的な結果をもたらす、ある種の欺瞞を介して働くのである。》
《男性の場合、過剰の享楽--男性が去勢によって否定されたもの--は、ラカンが「対象a」と呼ぶものによって妨げられている。最初、すべての主体はこの対象のことを、存在における欠如、象徴界に入る結果としておこる疎外だと感じるが、男性は女性のなかに幻想を求めることによって、この疎外を処理する。このように女性のなかに幻想を求める行為は、上記のラカンの引用にも示されているように、生物学的な男女間でも、男同士、女同士の間でも、同じように起こり得る。》