2021-02-01

●『精神分析にとって女とは何か』補章「ラカン派における女性論」(松本卓也)は、ラカンの女性論の要約であり、ぼくにとっては未知のものではないが、復習としてメモしておく(何度も復習しないと忘れてしまう)。

●50年代のラカン(男性はファルスを所有しようとするが、女性はファルスになろうとする)。

《(…)重要なものは重要なものとして可視化されている時よりも、「重要な何かが覆いによって隠されている」時にこそ---すなわち、不可視化されている時にこそ---もっとも重要なものとしてあらわれることは自明であろう。ラカンにとってのファルスとは、いわば代数学的な「x」であって、それ自体は隠されており不明なものではあるけれども、隠されているがゆえに主体にとって「あらゆる『意味しうるのも』が帰着する」といわれるほどの格別な重要性を持つ対象のことなのである。》

《(…)ラカンはオットー・フェニケルの論文「象徴的等式---少女=ファルス(Fenichil 1936)に比較的好意的に言及している。「少女=ファルス」という等式は、少女がペニスに同一化するという、フェニケルが症例の中に観察した空想にみられるものである。ラカンは、これを、ひとは(特に女性は)母に欠如しているもの(覆い隠されたものとしての「母の存在欠如」)に同一化しようとするのだ、と読みとく(Lacan 1966b,p565)。このような考えは、母に欠如しており、それゆえに母がそれを欲望していると子どもが想定する代数学的な「x」こそがファルス(より正確には「想像的ファルス」)であるという、同時期のラカンの定義にも一貫してしいると考えられる。また、ラカンが女性性の理解に際して大いに参照したジョリアン・リヴュエールの論文「仮装としての女性らしさ」(Riviere 1929)においては、女性はヴェール(覆い)としての女性らしさを身にまとうことによって、そのヴェールの下でファルスになることができる、という見解が述べられている。》

《(…)もはやファルスはその存在/不在が問題になるのではなく、むしろ「覆い隠されたものとしてのファルス」として性差にかかわりなく確立されるものであり、主体がファルスを所有しようとする(「ファルスを持ちたい」、これは多くの男性の場合にあてはまる)のか、あるいはファルスとして存在しようとするのか(「ファルスである」、これは多くの女性の場合にあてはまる)のかが問題とされるようになる。》

●70年代のラカン(「すべての女性」というものは存在しない)。

《(…)男性の論理に書かれている「∀x Φx」(普遍肯定命題)という命題は、「すべての男性はファルス関数に従う(去勢されている)」と読むことができる。ここで言われているのは、「男性」としてのセクシュアリティを持つ人間は、生物学的性別にかかわらずすべて去勢されているということである。そのすぐ上に書かれている「∃x Φx」(個別否定命題)は、「ファルス関数に従わない(去勢されていない)男性が少なくとも一人存在する」と読む。》

《この二つの命題は、いっけん矛盾するように思われる(…)。しかし、このことは「例外のない規則はない」(むしろ、例外があることによって規則が成立する)という諺や、フロイトが論文「トーテムとタブー」で述べた「原父神話」にかんがみれば、むしろ人間の心的現実をかたちづくるきわめて重要な論理であることがわかる。フロイトの原父神話において、強大な力を持つとされる原父が(すべての女性を独占し、自分以外のすべての男性を追放=去勢することによって)その例外の座を占め、一致団結した男性たちによって殺害された後にも「死んだ父」として例外の座を占めつづけることによって人間の共同体という普遍を成立させたように、普遍はその普遍にとっての例外の座を占める人物をかならず一人必要とするのである(Freud 1913)。このような議論は(…)いわゆる「否定神学システム」を彷彿とさせるだろう。》

《(…)去勢をこうむった結果として、男性は女性の身体そのものを享楽することができず、その代わりにフェティッシュとしての対象aを享楽せざるをえない、ということである(Lacan 1975,p13)。》

《女性の論理は、「¬∃x ¬Φx」(個別否定命題の否定)、すなわち「ファルス関数に従わない(去勢されていない)女性がいるわけではない」という命題と、「¬∀x Φx」(普遍肯定命題の否定)、すなわち「すべての女性がファルス関数に従う(去勢されている)わけではない」と読むことのできる命題から構成される。最初の命題が意味しているのは、「女性であるからといって去勢を免れることはできず、女性もファルス関数に従わないわけではない」ということである。しかし、この、「従わないわけではない」という二重否定は、単なる肯定(「すべての女性はファルス関数に従う」)とは異なる。それは、二番目の命題が、「すべての女性がファルス関数に従う(去勢されている)」ということを否定していることからも明らかであろう。》

《ここできわめて興味深いのは、ラカンが女性の論理の命題(「¬∃x ¬Φx」と「¬∀x Φx」)を、通常の述語論理ではありえない仕方で記述している点である。通常、述語論理では「∀」や「∃」のような量化記号に否定の記号「¬」をつけることはできない(…)。しかし、ここでラカンは、あえて述語論理を逸脱するような量化記号の使用を行い、特に「すべての~」を意味する全称量化記号である「∀」を否定することによって、女性についてまったく新しい規定を行おうとしているのである。ラカンが言わんとしているのは、女性は「すべて」(普遍)を構成しないような論理に依拠している、ということにほかにらない。言い換えれば、女性の論理の二番目の命題(「¬∀x Φx」)は、「すべての女性がファルス関数に従う(去勢されている)わけではない」ことを意味しているのであるが、この場合の否定(「¬」)は、「ファルス関数に従う(去勢されている)」ことを否定しているというよりも、むしろ「すべての女性」というものが存在することを否定しているのである(Lacan 1979,p68)。》

《(…)ラカンは、女性について「すべてはない(…)」、あるいは「〔普遍的な「女」と言えるような〕女なるものは存在しない(…)」という規定を与えることになるのである。このような女性についての規定は、もはや女性を男性の論理における「例外」の位置に---ひいては、「覆い隠されたものとしてのファルス」を巡る否定的な論理に---縛り付けることを必要としないことが理解されるだろう。》

《さらにラカンは、ここから女性における二つのセクシュアリティのあり方を引き出している。(…)一つ目は、女性のファルス享楽(La→Φ)である。これは、女性(La)が子どもを自分にとってのファルス(Φ)として欲望したり、ファルス(Φ)を持っているような男性を欲望したりすることを表しており、おおむねフロイトのいう「ペニス羨望」を説明するものとみてよい。ところが、女性にはもう一つの享楽の可能性がある、とラカンは言う。それこそが、「La→S( A )」と表記される「〈他〉の享楽(…)」である。先に説明した女性の論理の二つの命題にならって言うならば、女性の享楽はファルス的でないわけではないが、しかしそれはファルス的でない享楽がありえないということではない、というわけである。》

《(…)男性がファルス享楽しか得られないのに対して、女性は「ある追加的(…)な享楽〔=〈他〉の享楽〕を持っている」。ただしその享楽は、ファルス享楽に欠けているものを補完する(…)ような享楽ではない。というのも、「何かを補完する」ということは、何らかの「すべて(…)」を想定することになってしまうが、女性の論理はそもそも「すべてはない(…)」ものだからである。この用語選択が、「覆い隠されたものとしてのファルス」や代数学的な「x」を巡る論理の圏内から逃れるような仕方で女性を論じることと関係していることは明らかであろう。言い換えるならば、ラカンの「女なるものは存在しない」や「〈他〉の享楽」といった概念は、女性性の検討を通じて、けっして全体化されえないような---そして、エディプス・コンプレックスの彼岸にあるような---性と享楽の多様なあり方を指し示そうとしているのである。》

《ジャック=アラン・ミレールをはじめとする現代ラカン派の論者たちは、この女性の享楽のあり方を男性(というよりむしろ、すべての語る存在)にまで一般化し、これを目指すことを精神分析の目標とみなす傾向にある。》