2021-01-31

●『精神分析にとって女とは何か』第三章「日本の精神分析における女性」(西見奈子)では、主に「母性」についての検討。日本において特に強く作用する「母性」という神話について、精神分析もまたその影響下にあり、あるいは共犯関係にあったということを、エディプスコンプレックスに対応する日本独自の概念である「阿闍世コンプレックス」についての五つのテキストを比較することで検証している。また、1980年にフランスでベストセラーとなり、翌年には邦訳も出版された、《母性は本能ではなく、父権社会のイデオロギーであり、近代がつくり出した幻想であると結論づける》、エリザベット・バダンテールの『プラス・ワン』も、当時の日本の精神分析に影響を残すことはなかったと書かれる。

母性という概念への批判が日本の精神分析において語られるようになるのは21世紀に入ってからであり、その現れとして2003年に学会誌『精神分析研究』の「母性再考」という特集が挙げられる。母性という概念が疑問視されるきっかけは児童虐待が社会問題となったことによるという。ここまで最近になってようやく、現在では常識となっているような議論が出てくる、と(日本はいろいろ遅れていると言われても仕方ない感じ…)。

《牛島は特集のきっかけについて、児童虐待が連日のように新聞を賑わせるような状況からはこれまでの母性愛本能論を前提とした発達論でよいのかという疑問を持たざるを得なくなってきたと問題意識を述べている。これは他の論者にも共通して見られるものだが、そこには、あたかも母性があれば虐待はしないはずだ、あるいは虐待をするような母親には母性がないのではないかという考えが存在しているかのようである。》

《他方、小此木(2003)は別の見解を示している。小此木は昔から「育てたくない」といった子育てに困難を感じる母親たちは潜在的に存在していたに違いないが、母性愛神話によってそれらを抑圧していたところをようやく口にすることができる時代となったと述べている。こうした考えは、フェミニストや他の分野の研究者からも支持されるものである。》

《なかでも上別府圭子はより明確に母性は本能ではないことを示し、さらに「母性---否、母親を理想化する傾向は、一般人口においてのみならず、ことに男性の専門的リーダーの間で根強い」と手厳しく非難し、小此木の言葉である「まことの母になれぬ母のエゴイズム」や「自分中心な母から、まことの母へと心理的成長を遂げる」を挙げ、この「まことの母」というのは、男性のわがまま勝手をゆるし、自己主張や嫉妬、怨み、怒りの感情を押し殺すマゾヒズム的な母(=妻)という意味を含むものであると批判した。》

●これまでの章では主に女性患者について書かれていたが、この章では「女性治療者」について書かれている。

《一方、女性治療者が男性患者から蔑視されたり、モラル・ハラスメントやセクシャル・ハラスメントを受けたりという事態は、壇上では滅多に議論されないが、多くの女性治療者が経験することである。具体的には、自己愛的な男性患者から支配的、高圧的な態度を受けたり、場合によっては、暴言を浴びせられたり、交際を迫られたり、身体接触を求められたりすることもある。面接室という個室で行われるこのような行為に、女性治療者は強い恐怖と苦痛を感じることになる。これらは女性治療者にとって深刻な問題であるが、このような患者の態度について、事例検討会やスーパービジョンで問題にしたとしても、指導者層に圧倒的に男性の多い精神分析の領域においては、かえってもっと患者に共感するように促されるなど、女性治療者が体験している恐怖を理解されないことが多い。そこには、潜在的にシュピングのようなすべてを受け入れる母性的な態度が治療的に働くという日本の臨床に深く根付いている信念も関係しているのかもしれない。》

●女性治療者が「妊娠」「出産」について「語る」ことについて。

《2015年、『精神分析研究』では「治療者のセクシャリティを考える---特に女性であることについて」という特集が組まれた。(…)特集のなかでは、4名の論者がさまざまな視点から女性を語っているが、共通して取り上げているのは、女性治療者の妊娠である。そのうち、2名は自身の妊娠体験とそれが患者に与えた影響について考察している。そこでは、患者のこと以上に、治療者自身の妊娠に伴う生々しい身体感覚、また治療者の妊娠を巡るプライベートな情報がインパクトをもって開示されている。》

《(…)女性治療者の妊娠というトピックは、日本では語られていないどころか、むしろ語られすぎているとも言える状況にある。そこで問題となるのは、鈴木(2015)が指摘しているように、これだけの数の論考が発表されているにもかかわらず、それらの知見が精神分析の理論や技法に組み込まれず、日本の精神分析の発展に寄与した形跡が見当たらないということだろう。》

《そして、語られすぎているのは数の問題だけではない。そこでは治療者の生々しい身体感覚、プライベートな様子が赤裸々に語られている。(…)なぜこれほどにも女性治療者たちは自らを晒すのだろうか。自らを晒さないと女性性は語れないのだろうか。》

《臨床心理学の中で女性論を語ってきた代表的な論者である斉藤久美子(1990)は、女性について論じるうえでは、他の何を論じる場合にも増して、その論者の性別や、生まれた時代を抜きに論ずることは、大きな誤りを生じさせる危険があるという強い認識を示している。斉藤は、調教された結果としての「女らしさ」を自らの職業的努力において剥ぎ取り、仕事をしてきたが、時代が課する制約や限界は「第二の皮膚のように私の目の届かぬ背中に」張り付いていると述べている。そうしたバイアスを語ることなしに女性について論じることはできないということである。》

《(…)なぜ女性は自らを晒して女性について語るのか。そして男性はなぜ男性について語らないのか。この二つの疑問は、フェミニズムにおいて繰り返し指摘されてきた、典型的とも思える一つの答えに行き着いてしまう。それは、男性が無視されているのではなく、むしろ男性主体の世界に生きているから語る必要がなく、非主体である女性は女性について語り続けなければならない、自らの感覚を頼りに、ということである。》

《しかしここでさらに少し立ち止まって考えてみたいのは、女性側の矛盾である。新田は、フェミニズムには女性を子産み道具とし、生殖義務を押し付けてくる社会通念に抵抗しつつも、男には真似できない妊娠や出産の経験から、女性の独自性と理想の社会像を打ち立てる意志が受け継がれてきたと述べる。「生殖や子育てに対する自負と抵抗のアンビヴァレンス」(新田2020)という女性側の問題は、日本の精神分析における、なぜ女性治療者の妊娠に関する論文が多いのかという疑問に、もうひとつの答えの可能性を示してくれるものではないだろうか。妊娠、出産という経験した女性にしか分からないことに特権的な価値を置き、認めざるを得ないところにそれ以外を追い込むところには、分からないから認めざるを得ないという承認は得られたとしても、果たしてそれが互いの距離を縮めることになるのだろうか。》

《日本の精神分析に横たわるもう一つの問題は、母親以外の女性性についてほとんど語られていないということである。》

《笠原(1991)は、1978年に写真家のジョイス・テネソンが女性のセルフ・ポートレイトを広く公募してつくった本『イン/サイツ』や、1991年の「私という未知に向かって---現代女性セルフ・ポートレイト」展における調査を引用して、産む性としての女性性は、考えられているほど女性にとって決定的なものではないのではないかと疑問を呈している。テネソンのプロジェクトには4千点もの作品が寄せられ、その女性写真家の大半が25歳から35歳だったにもかかわらず、妊娠や子供をテーマにした作品は6点にも満たなかったという。こうしたプロジェクトに参加する女性たちの意識の高さを考えると、この結果を一般化することは難しいが、女性が自身の感覚をより丁寧に見直し、自分の女性性というものを再考した時、母親であることや母親になることが果たしてどの程度、関わってくるのかということは一考に値するだろう。》

《さらに日本の精神分析におけるこうした状況には、やはり戦争の影響を考えないわけにはいかない。日本の精神分析は、いわゆる15年戦争にも多くの影響を受けた(西2019)。その戦争と母性の密接な関係については、実に多くの研究が指摘していることである。母親を重視することは全体主義国家の特徴であり、日本でも戦火が激しくなる中で、母になること、母であることはさまざまな政策を通じて奨励された。》