2021-12-25

●『享楽社会論』(松本卓也)、第8章「レイシズム2・0?」で記述されるレイシズムの構造はとても説得力があるし、そうなのだろうと納得させられる。しかし、これは精神分析的な知によって初めて知らされる驚きの認識というよりは、我々は皆、あらかじめそのことをうっすら知っていることであるように思われる(それがより精緻に、くっきりと知らされるわけだが)。うっすらと知っているとても嫌なことを、だめ押し的に突きつけられる感じ。

フロイトは、レイシズムによる排斥を、〈父〉の位置を占める指導者への同一化を通じて行われるとしたが(レイシズム1・0)、ラカンはそれを、指導者への同一化ではなく享楽という観点から論じる(レイシズム2・0)。そのためにまず「三人の囚人の論理」を用いる。以下、第8章「レイシズム2・0?」より、引用、メモ。

《①人間は人間でないものを知っている。

②人間たちは、人間であるために、お互いのあいだで認めあう。

③私は自分がひとりの人間であると断言する、人間たちから人間でないと認定されるのを恐れて。》

《この論理では、人間は「人間である(と認められる)ため」という理由から集団を形成する(=「お互いを認めあう」)とされており、その際に指導者(=〈父〉)のような何かしら例外的な権威は一切必要とされていない。そして、人間が集団を形成するのは、ポジティブな連帯のためではなく、「人間たちから人間でないと認定されるのを恐れて」のことだとされている。この指摘は、すこぶる重要である。ひとが自らを人間であると認めたり、他者とともに集団を形成したりすることは、なんらかのポジティブな要素に依拠しては不可能である。集団の形成には「人間でない」者、すなわち排斥のネガティブな対象を集団の内部に立て、その者をスケープゴートとする契機が必ず含まれている、とラカンは言っているのである。》

《このように、指導者への同一化を必要とせずに集団を形成するラカンの論理を、ローランは「反-同一化的論理(…)」と呼んでいる。この論理のなかでは、レイシズムもまた指導者を必要としない。ある集団の内部で「人間でないもの」として認定された対象が、なんらかのエスニック・マイノリティなどの有徴者に受肉化されるだけで、レイシズムが成立するからだ。その際、何が「有徴」とされるかといえば、その人物の享楽のモード(享楽のあり方)である。ここでも、ポジティブな要素ではなく、ネガティブな要素によって集団が形成される論理が働く。どういうことだろうか? ひとは、自分たちの「正しい」享楽のモードが何なのかをポジティブなかたちで知ることができない。それゆえ、他者が行っている「異なる」享楽のモードを否定することによってしか、ひとは自らを人間であると認めたり、集団を形成したりすることができない。レイシズムにおいて、マジョリティとは異なる享楽のモードをもつ人物---典型的には、移民や先住民---が排斥の対象となるのはそのためである。》

《(…)さまざまな人種(民族)や出自の人々が共存する世界では、飲食の習慣や性行為、あるいは冠婚葬祭のやり方など、生活のなかで快を得たり不快を処理したりするための方法(享楽のモード)には多様なバリエーションが共存することになる。(…)すると、マジョリティは自らにとっての〈他者〉(=マイノリティ)の享楽モードを「発展途上」すなわち劣位のものとみなし、それを排斥したり、自分たちの享楽のモードを彼らに押し付けようとしたりする。ここにレイシズムが発生する。》

《(…)精神分析が教えるように、私たちの享楽は、十全なものとしてはつねにすでに失われている。それゆえ、私たちは自らの十全な享楽を位置づけることができず、「性関係のなさ」に悩まされることになる。しかし、この享楽の不可能性は、「どこかに十全な享楽を得ている人物=〈他者〉が存在している」という空想を生み出してしまう(…)。》

《ミレールは、このラカンレイシズム論を「外密性(…)」という言葉で定式化している。外密性とは、たとえば人間にとっての母語が自分にとってもっとも内密(…)なものでありながら、〈他者〉という外部に由来するものであるように、自身の内部における核心的部分を外部に依存しているという逆説的な性質のことである。》

《ひとは、自らの享楽をひとりで位置づけることができない。それは、享楽(ないし性関係)を語る言葉が欠如しているからである。そのため、享楽についての空想は、象徴界の裂け目のなかに問われるほかない(ここに、〈父〉の不在(A)と享楽の病理のからみ合いの点を見出すことができる)。このことは、レイシズムにおける空想がしばしば異なる人種(民族)における性関係についての野卑な言説という形をとって現れることからも理解できるだろう。また、レイシズムが〈他者〉のなかに想定されたわれわれ自身の享楽への嫌悪であるかぎり、その嫌悪は鏡像的な性質を帯びることになる。》

《(…)「私が十全な享楽に到達できないのは、この人物が私の享楽を盗んでいるからだ」という結論が引き出されるとき、そこにレイシズムが生まれる。つまり、享楽は〈他者〉を介してしか位置づけることができないにもかかわらず、ひとたびそれを身近な人種的〈他者〉を介して位置づけてしまうと、レイシズムが生まれてしまうのである。(…)そしてこの「享楽の盗み」という錯覚は、自分がそもそも最初からもっていない十全たる享楽を、あたかも〈他者〉さえいなければ到達できるかのようにみせてくれる点で、非常に魅力的なものとなる。そのため、ひとはこの錯覚から容易に抜けだすことができなきなってしまうのである。》

レイシズム2・0は〈父〉への同一化なしにも成立するが、「パニック」に陥った集団が、〈父〉への再-同一化を求める場合もあり、それはより悪い〈父〉を召還してしまう。

ラクー=ラバルトとナンシーは、フロイトが「集団心理学と自我分析」においてわずかに言及した集団の「パニック」という現象のなかに〈父〉をめぐるフロイトの動揺=症状を見定める。フロイトのいうパニックとは、集団のリビード的拘束が弛緩してしまったときに生じる。そのとき、集団に属していた人々はみな、不安に駆られ、たとえば上官の命令に耳を貸さなくなったり、誰も他人に気をつかわなくなったりするなどの反応を示す。つまりパニックとは、それまであると信じられてきた紐帯が壊れ、理想が機能しなくなってしまったときに起こる現象、すなわち一貫した〈他者〉(A)という夢から覚醒し、〈他者〉の非一貫性(A)が暴かれたことから帰結する現象と考えられるのである。》

《このパニックは、単に〈父〉の不在(A)を暴露するだけではない。(…)柿並によれば、「集団は指導者への同一化という錯覚が解けた時に成員相互の同一化も解消し、パニックに陥る。しかしこの同一化の失敗は翻って強力な再-同一化ないし超-同一化に転じる。それが〈父〉という形象への同一化と呼ばれる」。さらにその〈父〉への再-同一化は「他人への憎悪が剥き出しとなる場面」を到来させる。》

《ミレールが要約するような、「父がいたのは精神分析フロイト的時代であり、父がいないのが精神分析ラカン的時代である」という議論はいささか単純化が過ぎるのである。(少なくとも現代的な)レイシズムは、症状としての〈父〉の夢想(レイシズム1・0)が瓦解した際に、真の破局(レイシズム2・0)が生じるような運動として読まなければならない。いると思われていた父がいないことがあらわになる、秩序の瓦解の経験(パニック)のなかにこそ、レイシズムというより悪い〈父〉の回帰が明確な姿をとるのである。》