2021-12-24

アマゾンプライムエリック・ロメールの『木と市長と文化会館/または七つの偶然』。前に観たときはなんと人を食った映画だろうと思ったが、今回観てみたら、普通にロメールの映画だと感じた。

おそらく、作り方は他の作品と代わらず、骨組みとなる人物たちの関係-図式をつくって、その抽象的な項に具体物(の描写)を代入していくのだろう(陽の女性が小説家、アリエル・ドンバールなら、陰の女性はジャーナリスト、クレマンティーヌ・アムルーといった具合に)。ただ、そのとき、他の多くの作品は関係を形作る軸に恋愛・性愛があるのだが、この作品の場合は、(文化会館建設についての)政治的な立場の違いを軸に関係が組まれ、動いていく。恋愛、性愛、欲望といった動機によって人が動くのではなく、政治的な立場を動機とすることによって人が動くという意味では実験であると言えるかもしれない。

人物たちを語らせ、対話や行動を促す動因が政治であるため、(長セリフによる)対話の内容も政治的なものになる。だが、ロメールにとっては恋愛も政治も同じであり、恋愛観や好みの相手について語り合う対話と、今日的な左翼と保守のあり様についての対話は同じであり、恋愛の競争相手との対立と、エコロジーや公共建築についての考え方や評価に違いに基づく対立は同じであるようにみえる。ここで「同じ」とは、価値や意味が同じということではなく、どちらも同じメソッドでセリフが書けるし、同じメソッドで対話場面の演出が出来るし、同じメソッドで関係の対立や展開を組み立てることができる、ということだ(ロメールが特定の登場人物に自分の政治的立場を仮託しているのではないのは明らかだと思う)。同じような関係-図式のなかに、違った設定や別の要素や人物(具体物)を代入することで別の映画がつくれる、ということと同様、同じような組み立て方のなかに「別の主題」を組み込むことで別の映画になる。

(たとえば、ジャーナリストの取材に答える田舎の住人たちは、おそらく撮影された土地に実際に住む人々であるように思われる。つまり、政治を主題とすることで、セリフを喋り演じる俳優とは別種の人々、別種の身体---の描写---を、映画のなかに招き入れることができた、など。)

この映画は、条件法の従属副詞節についての授業場面からはじまる。「もし、明日晴れていたら、自転車にのる」というような。そしてその後、七つの偶然として、七つの「もし」のついた文が連なる。しかしこれは、自転車の例文とは異なり、「もし~でなかったら市民会館はつくられていただろう(しかし、~であったためつくられなかった)」という否定を含んだ形をとる。つまり、もし七つの偶然が重ならなかったら市民会館はつくられていただろう、ということになるのだが、実際はそうではない。実質的に七つ目の偶然が決定的であり、かつ、他の偶然群に対して自律しているため、前の六つの偶然はあってもなく結果に影響せず、どのみち文化会館はつくられなかったはずだ。

(勿論これは、決定的な偶然がそれまでの展開とはまったく別の方からやってきて、「えっ、そっちなの…」とずっこけるオチとして、意識的にそうされている。)

つまりここで偶然とは、結果に作用する偶然ではなく、この映画の展開や人物関係を動かしていく結節点としての偶然であり、しかしそれは設定された関係-図式によってあらかじめ決定されているのだから、偶然というより必然であり運命である(14日の日記に書いた『飛行士の妻』と同様に)。

だから、ロメールの映画における偶然は、たとえば『シュタインズゲート』のように「別の世界線」の存在を強く感じさせるようにはなっていない。偶然であればあるほど「そうでしかありえない(運命である)」ようにすら感じられる。

ただ、個別の作品(あるいは物語)としてはそうだとしても、シリーズなどの作品群や、あるいはフィルモグフィ全体を眺めるのならば、ロメールの作品群が、特定の図式の順列組み合わせ的な配置替えと、そこへ代入される入れ替え可能な要素や具体物(の描写)によって生じるバリエーションとしてつくられていることは確かであるように、今月になって三本つづけてロメールを観て強く感じた。つまり、ロメールの特定の作品は常に、別の作品の別の人物、あるいは別の展開や別の要素、別の描写へと(別の世界線へと)投射的な想起を通じてつながるような構造になっている。そこには時空を超えた配置と対比が響いており、それらが曼荼羅のように連なっている。ロメールが多作であり、低予算の映画を勤勉につくりつづけたということは、ロメール自身がその構造を意識していたということではないかと思う。