2021-12-16

●『飛行士の妻』(エリック・ロメール)でフィリップ・マルローは、昼間は学校に通って法律の勉強をしており、夜間、郵便局で郵便物の仕分けの仕事をしている。彼の職場が「郵便局」であることの必然性があるわけではおそらくない。前にも書いたが、この映画の登場人物は対比的、概念的に配置されている。マリー・リヴィエールが、(フィリップ・マルロー対して)年上で、尖って「陰」の印象のある女性だとすれば、アンヌ=マリー・ムーリは、年下で、融和的な「陽」の印象のある女性である、と。同様に、パイロットが、(マリー・リヴィエールに対して)年上で社会的地位のあるエリートで妻帯者であることと対比的に、フィリップ・マルローは、年下で貧しい学生の独身者として配置される。そして、昼は学校に通う苦学生の夜勤の仕事先としてあり得そうなものの一つとして、たまたま郵便局であった、ということだろう。

フィリップ・マルローの職場が夜間の郵便局であることは、一つの典型であり、他であっても別にかまわないが、たまたまそれとして設定されたということだろう。しかしその典型としてのxに代入された「(特定の場所、特定の時代の)郵便局の夜勤」は具体物であり、その設定からもたらされた具体物が映画のなかに、「中に郵便物が詰められた麻袋が、乱暴にドサッ、ドサッと積まれていく」描写や、「ゴムによって束ねられた様々な形や紙質の郵便物の束が持ち運ばれる」描写や、「細かく仕切られた棚のなかに行き先別の郵便物が人の手で仕分けられる」描写や、「早朝に仕事を終えて帰宅する人々の疲労感と解放感と眠気が混じったような感じ」の描写を、招き入れることになる。それは、1980年当時のパリの郵便局の夜勤の姿であり、現在とはかなり異なるだろう。そのような具体物の描写は(時に、意図的に語られる物語やコンセプト以上に)強い表現性を持ち、その作品固有の質感を形作るものの一つとなる。

13日の日記に《アンヌ=マリー・ムーリが「陽の女性」を演じているというより、「陽の女性」という記号にアンヌ=マリー・ムーリという具体物が代入される》と書いたのだが、この時、俳優が役になる(役を演じる)というより、それとは逆の、役が俳優になる(記号・概念が具体物になる)ということが起っている。ここで、概念が表現としての具体性をもつのではなく、概念によって導入された---概念を元に選ばれた---具体物(の描写)が、表現の固有の質を生む、ということが起きている。それは「概念の具体化(俳優が役を演じる)」とは異なり、概念から完全に切断されるわけではないものの、「概念の具体化」よりももう一歩概念から遠ざかった、別の質へのリンクを可能にする。

同様に、ここでは典型例(苦学生の職場の典型)が具体物(1980年のパリの郵便局の描写)になる、ということが起っている。

(これは、実写映画に一般的に言えることで、ロメールの映画に限ったことではないはずだが、ロメールは意識的にそれをやっているようにみえる。)