2021-12-14

●昨日から続く。これはネタバレだが、『飛行士の妻』(エリック・ロメール)には飛行士の妻は出てこない(写真のみ)。妻の代わりに飛行士の妹が出てきて、これがトリックとなっている(フィリップ・マルローも観客も、妹を妻だと勘違いする)。ネタが明かされることで、いたはずの「妻」が消え、その項が空になる。そして、妻の項が空になった代わりに、最後にフィリップ・マルローの職場の同僚(男性)がその穴を埋める。それはどういう意味か。

この映画の中心にいるカップル(マリー・リヴィエールとフィリップ・マルロー)には、それぞれパートナー以外の異性の相手がいる。そしてその相手には、別のパートナーがいる。そして二人とも、結局「別の相手」から捨てられる。マリー・リヴィエールはパイロットと関係しており、パイロットには妻がいる。そしてパイロットは妻との生活を選択し、マリー・リヴィエールに別れを告げる。ここから映画ははじまる。そして、フィリップ・マルローは公園でアンヌ=マリー・ムーリをナンパして、いい感じになるが、彼女は実は彼の同僚と付き合っていたと知るところで映画は終わる。つまり、「パイロットの妻←パイロット←(マリー・リヴィエール←→フィリップ・マルロー)→アンヌ=マリー・ムーリ→職場の同僚」という、男女反転した対称的な関係の図式が描ける。そしてこの図式の一方の端に位置する「飛行士の妻」が消える(妻だと思って尾行していた人物は妹だった)ことで、それまで空だった真逆の位置、アンヌ=マリー・ムーリのパートナーの項に、職場の同僚が(突如としてラストに)あらわれる。一方で真実が否定され(「飛行士の妻」は疑似餌だった)、それを補うように、他方で真実が明かされる(アンヌ=マリー・ムーリは付き合っている男性がいた)。この終盤に起きる二つの出来事によって対称的な図式が完成し、映画が締めくくられる。このように、『飛行士の妻』は徹底して対称的な図式に忠実な骨組みをもつ。

勿論、ロメールはこのような図式を示すために映画を作っているのではなく、これはあくまで(目的である)描写を支える潜在的な下地であろう。だが、だからといってそれが重要ではないことにはならない。それはたんなる方便ではなく、基本的な図式の対称性(登場人物の関係の形)は映画の内部では因果律や物理法則以上に強い法として作用している。

たとえばこの映画の物語はあまりにも多くの偶然によって成り立っている。フィリップ・マルローが、マリー・リヴィエールとパイロットが二人で部屋から出てきたのを目撃したのも偶然ならば、カフェでたまたまパイロットを見かけるのも偶然だし、フィリップ・マルローがパイロット夫妻(本当は兄妹)を尾行するバスで、パイロット夫妻がアンヌ=マリー・ムーリと同じ停留所で降りるのも偶然だ。そして、フィリップ・マルローがアンヌ=マリー・ムーリに声をかけざるを得なくなる状況になるのも偶然ならば、アンヌ=マリー・ムーリと彼の同僚と抱き合っているのを目撃してしまうのも偶然だ。そもそも、パイロットが妻ではなくて(裁判の都合とはいえ)妹とまるでデートしているみたいに連れだって街中や公園を歩くというのも強引な設定であると言える。

だが、これらの偶然は物語の展開のためにご都合主義的に導入されたものではなく、この作品の下地となる図式の対称性に忠実であるために、必然的に導入された偶然だろう。つまり、物語内現実においては偶然だが、作品構造においては必然だ。だから、実質的には偶然ではなく、むしろ運命と言った方がよいようなものだ。ロメールの作品の古典性(一見、偶然に身を任せてのらりくらり展開しているように見えるのに、均整がとれているように感じられる)は、下地となる法=図式の対称性からきていると思われる。