2021-12-13

アマゾンプライムに最近なかなか観るのが難しかったロメールの作品(半分くらいはDVDで持っている)が多く追加されたと思っていたが、それらは今年いっぱいで配信が終わってしまうようだ。この先、いつ観られるか分からないので何本かは観ておこうと思い、とりあえず『飛行士の妻』(1980年)を観た。

今のぼくにはロメールが面白いのか面白くないのかよく分からなくなっている。公園の場面はひたすらすばらしいと思ったが。

ロメールの映画の目的はおそらく「対象」の「描写」であり(そして「対象」とは、女性でありパリの街であろう)、「お話」は描写という行為を成立させるための下地として整備されるものという位置づけであるように思う。だから「お話(というか脚本)」は、幾何学的というか、半ばオートマチックというか、悪く言えば図式的に組み立てられている。

この映画でも、20歳の男性に対して、25歳の女性と15歳の女性が配置され、一方は、男性に対して多くの場面で苛立っていて、鋭角的で内向的で「陰」であるような印象があり、もう一方は、男性に対して友好的であり、当たりのやわらかい外向的で「陽」であるような印象がある。また、男性がつきあっている25歳の女性には元彼がいるのだが、男性が昼間は学校に通い夜は郵便局で働くような貧しい独身者なのに対し、元彼はパイロット(エリート)であり既婚者であるというように、分かりやすく対比的である。

(そしてこの二人の男性は、映画のはじめでまったく同じ行為をするのだが、男性はそれに失敗し、元彼はそれに成功する。)

(そのような対比は作品ごとにもあって、この作品が即興的なカメラワークとラフな感じのモンタージュならば、別の作品は厳密なフレーミングと厳密なモンタージュによってつくられる、など、技法もまた---カメラマンの選択などにより---入れ替え可能なxとしてある。)

また、話の展開も分かりやすい「逆説」によって形作られる。25歳の女性(マリー・リヴィエール)は元彼と言っているが、今でもパイロットとの関係が続いていると疑う男性(フィリップ・マルロー)が、その元彼を尾行する。この「マリー・リヴィエールへの強い執着から起る」行為が、逆説的に、新たな若い女性(アンヌ=マリー・ムーリ)との出会いを引き起こす。また、男性に対し常に苛立ち、強くあたっていたマリー・リヴィエールこそが彼(フィリップ・マルロー)を愛しており、彼に対して好意的で当たりのやわらかかった若い女性(アンヌ=マリー・ムーリ)は、実は彼ではなく、彼の友人と愛し合っていた、など。

お話、脚本、そして技法は、目的のために仮説された骨組みの足場のようなものであり、それはある程度、オートマチックに、あるいは順列組み合わせ的に決定されると思われる。そしてその骨組みに肉をつけ血を流すのが「描写」であり、描写するという行為の根拠にあるのが「対象」、つまり「具体物」だということになる。

たとえば、マリー・リヴィエールが「陰」の印象のある女性であるのに対して、若いアンヌ=マリー・ムーリが「陽」の印象のある女性であるとすると、アンヌ=マリー・ムーリが「陽の女性」を演じているというより、「陽の女性」という記号にアンヌ=マリー・ムーリという具体物が代入される。勿論、アンヌ=マリー・ムーリという人物そのものをそのまま代入することは出来ないので、「アンヌ=マリー・ムーリの描写」がそこに代入される。その時、「陽の女性」という記号、あるいは概念がアンヌ=マリー・ムーリという形で表現されるのではなく、記号を媒介にすることによってアンヌ=マリー・ムーリという具体物(具体的なこの人)の一部が映像として表現される、ということになる。また、「陽の女性」という記号は、映画のなかに「陽光が降り注ぐ冬の公園(の描写)」を招き入れる。ここでもまた、陽の女性というキャラクターを表現するために「公園」が利用されるのではなく、陽の女性という記号が、映画のなかに「(この日・この時の)公園の描写」を招き入れる。

ただここで、「描写」というものの微妙な位置を考慮する必要がある。描写は「世界の側」に属していて、描写することは「世界そのものの表現」であると言えるのか。そうではなく、描写することは、描写をする者による(描写する者の欲望による)、描写される者(物)への支配であり搾取であると言うべきなのか。支配や搾取という言葉が強すぎるとすれば、描写することは「対象の操作」だとは言えるのではないか。

これはかんたんに白黒をつけられる問題ではなく、描写には常にこの二面性があり、しかし、より「世界の表現」の側に近い描写もあれば、より「搾取」や「操作」の側に近い描写もあるだろう。ひとつひとつ個別のケースを丁寧に吟味する必要があり、そして、同じ描写であっても、見方によって異なる立ち上がりをすることもあると思う。

(あるいは、支配や搾取は別として、「操作」がそんなに悪いことなのか、「操作」なしで我々は生きていけるのか、いや、支配や搾取であっても、それをゼロにすることは出来ないので---少なくとも今のところそのための方法を人類は発見できていないので---どの程度のものならば許されるのか、という議論が必要ではないか。あるいは、描写主体と描写対象のフェアトレードはどのようにすれば可能なのか、また、それを問うことに本当に意味があるのか。等々、簡単には言えない問題が多々ある。)

(われわれは誰でも、自分自身にも起源の定かでない欲望に、それとは知らされないままで支配されており、この不透明な欲望の作動の元で生きながら「フェア」であることなど、そもそも可能なのか、という疑問もある。)