2024-12-28

⚫︎映画版『デッドデッドデーモンズデデデデストラクション』後章。うーん、引き続き、面白いは面白いが、前章の方が圧倒的に面白かった、と思った。

物語としての整合性をつけようとする、というか、この場合は整合性というより、物語がきちんと「終わった」感がでるように収束させる、という方が適当かもしれないが、物語としての整った「形」を作ろうとすること、そしてさらに、エンタメとして成立させるために、クライマックスらしい壮大なクライマックスを作ろうとすること。多くの物語は、このことにって凡庸化してしまう。

この作品は、SF的なアイデアからすれば特になんということもない話だし、そもそも「物語」としてもそんなに面白い話でもない(今時、並行世界を持ち出してもだれも驚かない)。この作品の優れたところは、前も書いたが、世界を構成する要素の取り合わせの奇妙さと配置のアンバランスの面白さと、そのような異常な世界で営まれる、どこか調子の狂った女の子たちの日常の描写の塩梅が、とんでもなくリアルで面白いというところにある。

そしてこの、世界の構成要素の取り合わせのアンバランスの面白さは、SF的なアイデアとしての面白さではなく、我々がその只中で生きている「現在」を歪んだ鏡で映し出したような、現在をカリカチュアライズしたものとしてとてもリアルである、というところの面白さだ。物語としての構えの大きな部分、例えば、政府の陰謀がどうしたとか、S.E.S社による方舟計画がどうしたとか、そういうものはあくまで日常描写の背景にあることによってリアルなので、少女たちの生活の側からの視点が、権力者やジャーナリスト視点という「大きな物語」の側へシフトすると、ありきたりの、どこかで聞いたような物語になってしまう。

たとえば、サブカルヘルメットと呼ばれた小比類巻くんが、陰謀論にハマって侵略者撲滅運動に加わってしまうというところまではリアルだが、彼が頭角を表して組織のリーダーというか、中心人物にまでなってしまうと、途端に薄っぺらでリアルでなくなってしまう。この「踏み越え」を抑制する可能性はなかったのだろうか、と思ってしまった(それに比べて、おんたんの兄のリアルな面白さが素晴らしいのだ)。世界の崩壊を、日常の側からだけで捉えることはできなかったのだろうか、と。

(追記。ただし、力が拡張された小比類巻くんは、並行世界のかどでとパラレルな存在であるという点において、作品内に根拠を持つ。)

あるいは、大葉くんが、世界を救うために自己犠牲的に頑張るという展開は、確かに壮大な、クライマックスらしいクライマックス場面を形作るだろう。でも、このような「壮大なクライマックス」を、アニメで今までどれだけ観てきただろうか、と思ってしまう。それまで、すごくユニークだった作品が、途端に普通になってしまう(頑張っている大葉くんには大変申し訳ないのだが…)。

⚫︎この作品では、「少女たちの日常」と「大きな物語」をつなぐために、並行世界という、宇宙人の侵略とはまた別のSF的なツールをもう一つ持ってきて付け加えている。主人公の少女(おんたん)は、ただのどこにでもいる少女ではなく、この世界がこのようにしてある根本原因である、という形で、彼女は「世界の中心」に据えられる。この展開には、綺麗に構築された物語的な結構というよりは、かなり強引で、途中で思いついたことを無理やりねじ込んだかのような粗っぽさがある。

それによって導入される、もう一つの世界での「おんたんとかどでの物語」は、あまり良いものだとは思えなかった。ただ、もう一面で、この粗っぽい接続が、この作品を「エヴァンゲリオン」を完膚なきまでに更新する物語にしているのではないかという感じが、ちょっとだけある。

この接続の意味については、もう少し突っ込んで考える必要があるかもしれない。