2023/11/13

⚫︎『荒ぶる季節の乙女どもよ』を四話まで観た。超平和バスターズ三部作に続いて岡田麿里脚本のアニメ。岡田麿里には、前の作品で積み残したものを次の作品で主題化する、みたいな感じがあるのか。「あの花」において、子供時代と現在との断絶は「性的なものに目覚めた」前と後という形で線引きされていた。とはいえ「性的なもの」はあくまで「分断線」として機能しているが、それ自体が生々しく描かれることはなかった。「荒ぶる…」でも、幼馴染との関係において「性的なもの」が過去と現在の分断線として機能しているが、こちらではその「分断線の現れ」そのものが生々しく描かれる。性的なものに目覚めるという不可逆的変化が、今ここで起こっているという、そのありようが繊細に拾われる。

一方で、『らき☆すた』や『けいおん』からの流れにある日常系と言われる作品があり、そこに現れるアニメの中にしか存在しない少女像というものがあり、それは現在では『お兄ちゃんはおしまい ! 』(これも途中までしか観ていないが)という極めて先鋭的な表現にまで達していると思うのだが、岡田麿里の描く少女像はその流れとははっきり異なるリアルさがあり(しかしそのリアルさはリアリズム的なリアルさではなく、あえて言えば寓意的なリアルさと言えるのではないか)、とはいえ、「あの花」の「めんま」にはそのようなリアルさはなくて、このリアルさは『心が叫びたがってるんだ。』の成瀬において獲得されたように思う(他の岡田麿里作品は参照できていないが)。

(この違いを、男性から見られた女性と、女性自身により内省される女性の違いとして捉えるのは単純すぎるだろう。たとえば『けいおん』は、原作者は男性作家だが、監督も脚本もキャラクターデザインも女性による。一坊に「おにまい」があり、もう一方に「荒ぶる…」があるというアニメの世界の幅の広さ。)

「心が…」においても、性的なものの蠢きは十分に含意されているものの、あくまで潜在的に効いているという感じで、故に精神分析的な作品だと言えるが、「荒ぶる…」において性的な蠢き(と、それを引き出す「男性」との関係性)は顕在化されており、さらに、五人の少女それぞれに異なる形が分け与えられていることにより、いわゆる「社会化」がなされている。

「心が…」は自分にかけられた呪いを解いていくという話だが、「荒ぶる…」の人物で深く呪いがかけられていそうなのはスガワラくらいで(部長にも多少の呪いはあるか)、それ以外の人物たちにおいて重要なのは、まさに、今ここで湧き上がっている性的なものの蠢きとどう折り合いをつけるのかという問題であり、ここでは「自分自身の欲望がまず自分を傷つける」という性的なものの厄介さが問題にされているように思う。