2023/11/14

⚫︎たとえば、サイコロを十二回振った時に、一から六までの目が等しく二回ずつ出るということは稀だろう。そこには偶発的に生まれる偏りが生じ、いわば偶発的固有性のようなものが生まれる。Aさんが振った十二回と、Bさんが振った十二回の目の出方が完全に一致することは稀で、そこにAさんとBさんとの偶発的な固有性が生まれる。

だが、サイコロを一万回降れば、偶発性はほぼ消える。一から六までの目はほとんど偏りなく均等に出るだろうから、偶発性はわずかな誤差の範囲にとどまり、そこではAさんとBさんとの違いは限りなくゼロに近づく。

とはいえ、サイコロを振るという行為は、同じ条件で同じ行為を繰り返すという人為的に整えられたもので、この宇宙の歴史上、あるいはこのわたしの生涯で、全く同じ状況は二度と現れないともいえ、だからサイコロは常に「一回」しか振られないとも言える。

⚫︎サイコロとは逆に、「交換」という行為においては、正確に平等な、まったくランダムな交換であっても、それを繰り返せば繰り返すほど自動的に格差が広がっていく。

(サイコロは個における出来事の系列、交換は社会的な分布、を表現するのか ? )

⚫︎サイコロを一万回振れば、出る目はほぼ均等に分布する。しかし「この宇宙」における物理的な出来事の多くは均等に分布しない。この宇宙に偏りがなく、ランダムな出来事が均等に分布するとしたら、宇宙は永遠にガス状のままで、固体としての物質も生まれないし、星も生まれない。つまり我々も生まれない。

この宇宙で起こるランダムな出来事の多くはなぜか、いわゆる「べき乗則」と言われるグラフのように極端に偏った分布となり、この偏りがこの物質的世界を生むとも言える。だとすれば、均等な分布は何も生まない。あるいは、自然にはあらかじめ偏りが埋め込まれており、それにより変化や発展が生まれることになる。

⚫︎人類が進化的にチンパンジーと袂を分つのは約600万年前だと言われ、その大部分の時期は小規模のグループが狩猟採集で生活していて、農耕や定住が生まれたのは約一万年前と言われる。つまり、600万年のほとんどの間、変化も発展も起こらず、人々は蓄積をせず、故に過去も未来も限定的(おそらく数世代程度)で、基本期に平等であった。もちろん、近隣のグループとの戦争は頻繁にあっただろうし、そこにローカルな勝ち/負け(支配/非支配)という格差はあっただろうが、格差も、グループの規模も、一定程度の範囲にとどまり、それ以上には発展することかなかった。しかし一万年前に農耕や定住が生まれ、それは大きな国家(大きな格差)へと繋がっていく。なぜこの間、600万年も自然の「べき乗則」ルールに逆らった均等な分布が可能だったのか。人々はどうやって「発展」に抗ったのか。

(とはいえ、現生人類より頭が良く、運動能力も優れていたと言われるネアンデルタール人が約四万年前に絶滅しており、これが仮に現生人類との抗争が原因で、現生人類がネアンデルタール人を絶滅させたのだとするならば、上記のイメージが適切であるかどうか分からなくなる。四万年くらい前から変化の兆しはあった、ということなのか。)

⚫︎あるいは、べき乗分布は、空間的、密度的なものだけでなく、時間的な分布にも適応されるのかもしれない。600万年の間は、いわゆる「ロングテール」の時代で、一万年前にモードが変わり、上昇角度(変化の速度)が変わったのかもしれない。

⚫︎とはいえ、大きな国家、大きな格差(貴族と奴隷のような)がなければ、おそらく数学も生まれないし、哲学も生まれない。

⚫︎もし仮に、べき乗則グラフのような分布が、この宇宙において物理法則のように強く作用して、逃れようがない(あるいは、逃れても秩序の崩壊しかない)とするならば、このグラフの上昇の傾きをできるだけ緩やかにすることはできないだろうか(指数を変えれば良いのだが)。どこまでならば傾き緩やかにしても秩序は崩壊しないという、その閾値のようなものがあるのではないか。