●仮に、永遠にサイコロを振りつづける機械があったとする。サイコロが次に何を出すのかは予測できないが、一から六のすべての目が等しく六分の一の確率で出るとする。これを世界とする。
このサイコロ世界に、サイコロの出た目を観測する観測者が生まれる。だがこの観測者の寿命は、せいぜいサイコロが十回振られる程度しかないとする。サイコロの目は大きくみれば正確に六分の一の確率で出るが、一振り一振りにおいては完全にランダムであり、短い期間に限定すれば偏りが生まれる。永遠に振られ続けるサイコロの目が、たまたま十回くらい続けて「一」の目を出すことはあり得るし、たまたまそれに当たる観測者を考えることもできる(六千万分の一よりもさらにさらに低い確率だが、サイコロが永遠に振りつづけられ、六千万以上の観測者が生まれたとすれば、あってもおかしくない)。
たまたま十回つづけて「一」の目が出た時に生まれて死んだ観測者には、世界は常に「一」を出し続ける場所だという認識が生まれる。観測者の限定された視点においては、これ以外の結論を出すことは難しい。彼にとってこれは常識であり、世界への実感として深く刻まれる。
しかしこれは、観測者が他の観測者との関係を一切もっていないという条件でのみ考えられる。仮に、彼のもとに過去の観測者による記録が残されていたとすればどうか。過去三十回分の記録があったとする。すると彼は、世界がかならずしも「一」を出し続けるわけではないことを知る。さらに、「一」が続くということは、むしろ珍しいことなのだという認識も得るだろう。しかしその程度であれば、世界は「一を出しやすい場所である」という認識までは変わらないだろうし、「世界=一」に馴染んだ彼の「実感」までを変えることはできないかもしれない。
だが、過去一万回に及ぶデータ(およびその解析結果)があれば、彼は自分の認識や実感が完全に間違いであり、自分の経験(生)が相対的・限定的なものでしかないことを思い知る。おそらくこれが「科学」だろう。
●しかしぼくはここでインチキをしている。世界の外側から、「永遠にサイコロを降り続ける機械」を設定し、その確率を「正確に六分の一」だと規定している。つまり「正解」をあらかじめ設定してしまっている。しかし、そのようなことを断言できる者は、そもそもこのサイコロ世界の「内側」には存在できない。
永遠に続くかのように思われたサイコロ振り機械は、ちょうど十京回目に停止してしまうかもしれない。六分の一だと思われた確率は、サイコロの磨耗によって微妙な偏りが生じるかもしれない。というか、そもそも六分の一という確率は、億単位までの計測によってみの導きだされるものでしかなく、兆単位での観測をもとに解析してみると、その根本原則そのものが変化していた(あるいは、まったく別の原理であった)ことが明るみに出るかもしれない。
(実際には――つまり、サイコロ世界の外から見れば――そんなことはないのだと分かるとしても、サイコロ世界内にいる限り、観測者には「そんなことはない」とは断言できない。ただ、限りなく世代を重ね、観測を、一億回、一兆回、一京回と積み重ね、その都度その都度、結果を元に解析する行為を果てしなく付け足してゆくことができるだけだろう。正解を断言できるのは「永遠=果て」の向こう側にいる者だけだ。)
一万回分のデータは、十回分の生しかもたない観測者にとってはほぼ「果て」からの視線と同値であるように感じられる。しかし、過去データと解析によってその「果て」の視点を手にした観測者(この観測者は一万回分の「果て」からの視点を内在化する)もまた、そのとたん、さらにその先にある「果ての果て」(たとえば兆単位のデータ)によって相対化される。
原理的に、この「果て…」を内在化することはできない。このことは、科学者は基本的に、後から出てきた者が常に優位であるということを意味する。ニュートンよりもアインシュタインが、アインシュタインよりもボーアが、常に優位である。そして、この「果ての、果ての、果ての…」という無限の働きの「外」を想定して実体化すると「神」になる。だから科学は神を否定しないはず(むしろ要請する?)。
●ここで視点を変えて、ぐっと小さく限定してみる。仮に、サイコロの目が六分の一の確率で出ることが(果ての「外」からみても)「正解」であった、とする。だから、次の一振りで出る目が「一」である確率は正確に六分の一であると予測できる。しかしそれはそのまま、次の目に何が出るのかはまったく分からない、ということに等しい(確率にほんのわずかでも偏りがあれば、次の一振りでどの目が出る可能性が高いのかがわかり、永遠にくり変えされ続けるサイコロ世界では、常にその目に賭けつづけることによって確実に勝利するが、そのような予想は不可能となる)。
つまり、「正解」によって、世界はまったく無根拠なものになる。次の一振りに何の目が出るのかは、文字通り「神のみぞ知る」ことになり、「勝つ」ためには神頼みしかなくなる。ここでは、果ての先にいる神、世界の外にいる神とは別の、「この一振り」に宿る神が、「次の一振り」を決定する神の出現が要請される。
●しかし、ここで最初の、たまたまその寿命の間に「一」が出続けた観測者を思い出す。もし彼が「自分の実感」を信じつづけ、ひきこもり、世界とは「一」が連続して出る場所なのだということを一切疑うことがなかったならば、神が出現する必要がないということになるのではないか。
そしてこの時、彼は(彼自身の生の限定と偶然によって)、サイコロ世界に内在していながら、別の原理をもつ、別の世界を「つくってしまったのだ(あるいは、別の世界へ通じてしまったのだ)」と言うことには、無理があるのだろうか。