●「東京新聞」の末永史尚「放課後リミックス」展の記事は、そもそも900字では書ききれないことを無理矢理900字に詰め込もうとして、結果として何を言いたいかがいまひとつ明快とはいえない文章になってしまったかもしれないという感じがあるので、昨日につづき、もうちょっと書いてみる。
●たとえば、ある建築物の中にいて、そこに設置してある建築物の模型を見ているという時の不思議な感じというものがある。自分が今、その内側にいるものを、外側から見ている。あるいはそれは、自分が今いる位置を、地図によって確認しているという感じとも近い。「経験」と「対象化」ということで考えていたのはそういうことでもある。その妙な感じは、われわれが生きている時に常にある、ともいえる。ある出来事の内にいると同時に、それを外から規定している。
郡司ペギオ-幸夫は、「道具が命名される」という出来事について書いている(以下の引用は「適応能と内部観測」の注から)
《当初耳に指を入れて耳を掻いていた。そのうち、棒を用いて耳を掻いた。棒はいずれ進化をとげた。人々は「それら様々な棒を使って耳掻きをする」、と言っていた。あるとき“耳掻きを取ってくれ”と叫ぶ者があらわれる。最初に用いられた単なる棒は、耳掻きに使われたことでのみ、耳掻きの道具たり得た。以前の耳掻きとして使われた棒は、以後耳掻きとして使われることで、新たな道具`となる。》
「耳掻きに使われる棒」を「耳掻き」と命名(記述)することで対象化する。郡司はここで、耳掻きという行為が今後も連鎖される限り、耳掻きに使う棒も無限に進化し得るし、耳掻きという行為をする有限の世界の内側に住む者には、究極に進化した「耳掻き(道具)」を知らず、「耳掻きの果て(∞)」としか捉えることができないから、「耳掻き(道具)」と命名する行為は、その果て(∞)の「向こう側(外)」から「耳掻き(道具)」を見ている者を想定しない限り可能ではない、とする。つまり、「耳掻き(道具)」という命名によって、《果てである道具∞に外部から触知し命名する者をでっちあげる》。
ここでいきなり「無限」が出てくることに戸惑うが、それはおそらく郡司が数学的な発想によって思考しているからで(万能チューリングマシンの停止問題とか?)、実際は「耳掻き(道具)」は無限に進化するというより、ある最適化された形に落ち着くだろう(とはいえ、最適化と思われた形ができた後でも、可能性としては常に「その先」はあり得る、このあたりのことについては、エリー・デューリングによる議論が参照できると思う)。ともかく、つまりわれわれには、決して(外から)確定できない「行為の連鎖」のただ中にあることがらを、あたかもその連鎖がすべて尽きた果て(世界の外)の、すでにそれを規定し得る位置から捉えているかのように対象化する。内部観測のなかから外部観測者を出現させる。
もちろん、この対象化は実際の「果てからの眼差し」などではなく、暫定的な解でしかなく、常に、繰り返し、修正される。だが、そうであるにもかかわらず、内部観測はどうしても外部観測者の出現(外部観測者を想定する—でっちあげる--こと)を必要とするかのようなのだ。
(経験と対象化とは、分離しつつも常にセットになっている。)
たとえば、「愛」という言葉の厳密な定義など誰にもできないにもかかわらず、しかし、未規定である(確定されない)はずの「愛の実践」は、「愛」という言葉によって(飽きることなく繰り返し)対象化されること(つまり、暫定的に固定され、外側から把握される…、繰り返し語られる愛についてのおしゃべり、恋愛物語、シミュレーションゲーム、あるいは、科学的、精神分析的言説など…)によって、はじめて可能になるかのようである。対象化された「愛」という概念が、愛の実践の「媒介」となっている。《でっちあげ》られた「愛」こそが、愛の実践を可動させ、かたちづくる。
(「愛」を「絵画」に書き換えることも可能。)
ここで、「耳掻き(道具)」や「愛」が、「建築模型」や「地図」に対応し、「耳を掻くという行為とそのための道具の進化の継起」や「愛という行為の実践」が、「実際の建築物の中にいるわたし」や「ある土地のある位置にいるわたし」に対応する、ということになる。
●末永展の会場に、会場の空間を虚実反転させた模型のような作品があった。この作品=模型は、空間の部分が物質(合板)で占められ、物質(壁や仕切)が空間になっていて、そのどちらにも属さない「表面(ヴァーチャルで純粋な二次元)」にペインティングが施されていた。
この作品=模型は、明らかに自分がいる「この空間」を模倣するものだった。ただ、それは小型で、足下にあり、わたしはそれを文字通り俯瞰して見ることになる。冒頭で書いた建築模型と同様、自分がその内側にいる空間を外から見ている(この時、経験している「内部観測者のわたし」が、《でっちあげ》られた—対象化する--「外部観測者としてのわたし」に無理やり重ね合わせられることによって、逆説的にズレが意識化される)。しかし、空間の形を物質で再現したその作品=模型は、空間を再現しつつ空間を閉め出している。つまり「そこ」には自分の居る場所はない。
外と内との反転と同時に、虚実(空と物)の反転をもつその作品=模型は、そのどちらでもない(境界そのものである)平面的な「絵画領域」を出現させる。そしてこの、ヴァーチャルな平面という領域こそが、内部観測と外部観測との反転、そして虚(空)と実(物)との反転の軸となり、さらに、その平面こそが実在であり、そこから、内部観測と外部観測(二種類のわたし)の分離、虚と実(二種類の空間)の分離が起こるような感じを、つまり、どちらも(わたしも空間も)そこから投射された「幻」であるかのような感覚を、生じさせているように思われた。
どこにもないヴァーチャルな平面こそが実在する、というような…。