●お知らせ。明日、1月23日づけ「東京新聞」夕刊に、3331アーツ千代田のなかにあるMaki Fine Artsでやっている末永史尚「放課後リミックス」展のレビューが掲載されます。
新聞の評なのであまり難しいことは書けなかったのですが、この記事で「作品の経験的な側面と対象化的な側面」と書いている時に意識しているのは内部観測でした。
ある経験があり、その経験を対象化する(意識する、思い出す、記述する)という行為がある時、そこには、オブジェクトレベルとメタレベルとの分離があるだけでなく、階層性の破れというべき相互作用が働いていると考えられます。経験は内的なものであり、ある経験のなかにいる時、出来事と経験とは一体となっていますが、それを後から対象化しようとする時、一体化された経験=出来事の流れの外に出て、ある経験(=出来事)を「図」として、「地」となるそれ以外の経験(日常的な流れ)とを分離し、限定し、整形して捉える必要があります。我々がある質をもった経験を意識する時、すでにこの二つの過程は生じていて、出来事と一体となった「経験そのもの」を意識的に取り出すことはできません。
たとえば、その度ごとに新しく出会うはずの「個別のアリ」は、それをアリだと認識する時点で、すでに知っている概念としての「アリ」という限定に押し込められています。しかし同時に、日々あたらしく出会う個別のアリの姿が、すでに知っている「アリ」という概念をその都度書き換えるともいえます。階層化は、行われるごとに破られ、破られるごとに行われる。未確定の経験は対象化によってあらかじめ閉じられていて、しかし、閉じた対象は経験の未確定によって開かれている。
ある出来事を思い出したり記述したりすることは、それ自体でその「出来事それ自体」を歪め、変形させますが、しかしその、想起や記述による経験の変形が、新たな経験の質や、あらたな想起を編成をつくりだすピースとなり、その新たな編成こそが、対象化の別のやり方を生んで経験をあらたなものにする、という循環が起こると考えられます(想起=対象化という働き自体が、また一つの経験でもあって、さらにそれが、例えば記述によって再対象化され、その記述も読まれることで経験となり……)。経験と対象化とは、だいたいのところで妥協しつつ、お互いを少しずつ裏切りながら循環して、決してぴったりと重なることはないので、同一物の同一性は、確認されるたびにすこしずつズレてゆくでしょう。しかし通常、そのズレは意識されずに、実践的行為が成立する(特に不都合なく生きてゆける)という事実のなかで吸収されていくでしょう。つまり、経験と対象化という異なる階層に属するものが強引に重ねられ、(階層の違いが無視され)「同一物」に着地したとみなされます。
(対象化の形式は通常安定的に働き、そうでなければ人は安心して生活できないでしょう。)
作品というものが、自らの形式性(あるいはメディウム性)を意識化するという時に浮上するのが、通常の再帰的同一性の成立時には無視(吸収)される、この「階層性の破れ」という出来事だと思われます。仮に、作品の「内容」を「作品が暗示するもの」とし、「形式」を「暗示を発生させている具体的構成」だと考えてみます。形式的な作品においては、この両者を「同時」に意識することが要請されるでしょう。同時ということは、必ず、重なっているとともにズレている、ということです。ここで、「暗示」は「経験」に近い内的なもので、「構成」は「対象化」に近い外的な把握だといえると思います。
「放課後リミックス」という展示を観て感じたのは、対象化によって経験を同一物として回帰させようとする人間の認識の働きを動力にしつつも、対象化という着地点を上手くスルーさせて、経験と対象化との循環をつくっている、という感じでした。対象化しようという志向が経験を書き換え、その経験が再度、新たな対象化を要請する、そしてその新たな対象化のやり直しがさらに経験を変質させ……、と。
会場に入ってまず、この展示は「何を観ていいのか分からない」という感覚がきて、それによって鑑賞モードというよりは解析モードというか、探索モードに入りました。つまり、すんなりと対象化が起こらず、対象を探査する感じで見始めました。
まず、壁にかかった奇妙な形のフレームをもつ絵画を、ふつうに「絵画」として観ようとするのですが、それは明らかに、いったん成立したイメージが事後的に解体されているものだとわかります。それによって「絵画」としてまとめられようとした対象化の働きはいったん宙づりにされます。しばらくして、展示の「仕組み」をだいたい察することができると、対象はある程度固定化されるのですが、今度は入室時には見えてこなかった、作品の別の側面が強く見えてくるようになりました。
タングラムの規則によって分割され、再構成されたイメージに対して、これは何なのかと問い、さらに頭のなかで元のイメージを構成し直そうという行為のなかで、ふいに、作品が(最初に対象化しようと思った「絵画」とはちょっと別の感触による)絵画の質として見えてくる、という感覚(つまり、最初の「絵画」と二度目の〈絵画〉とでは、対象化のされ方が異なる)。そうすると、タングラムとは別の形式でつくられた作品(立体を絵画化したような、段ボールや折り紙モールをモチーフとした作品)と、タングラムの作品との「つながり」のようなものが見えてきました(ここでまた、つながり=関係が対象化される)。いったん、対象化されたものから、毛色のちがった経験が与えられ、それによって、改めて別の対象としての再構成が要請される。
(たとえば、タングラムの作品は、平面的なイメージの解体--再構成なのですが、それがパネルに描かれることで否応なく「厚み」という感覚を強く持つことになります。しかし、三次元的な立体物を絵画化した作品の方は、逆説的に、その一つ一つの面が純粋に平面的であるように--ヴァーチャルな「平面性」のようなものが--強く感じられた、ということもありました。)
もともと学校であったという痕跡をあからさまに残す3331という場所。そこに、黒板や床の木目や習字という、学校との関連を想起させるイメージが、しかし(イメージとしては)解体されて壁に設置される(イメージとしては解体されているが、絵画としては解体されているというわけではない--その形をもった作品である--絵画が、「学校の機能」としては解体されている--アート関連施設である--が、「学校のイメージ」としてはそのまま残されている場所に置かれる)。さらに、段ボールや雑巾、折り紙モールといった(立体的な)物の形態を模倣した(立体物を、立体としての構造を模倣したままで、イメージとして平面化しているような)作品が置かれる(平面であることによって「厚さ」を意識させるタングラム作品と共に、それが置かれている)。
さらに、会場である画廊の空間の虚と実とを反転させたような(空間の部分に物質があり、壁の部分に空間がある)、模型のような絵画作品(?)も置かれている。この、空間を裏返し、絵画を裏返したような作品=模型を俯瞰的に眺めることが、ギャラリー空間そのものの裏返った自己言及のようになっていて、経験と対象化との間の階層性の破れへの意識をいっそう強く促進させると感じました。