●『ユリ熊嵐』第三話。主人公(紅羽)と熊(銀子)との関係が少し見え始めてきた。おそらくこの二人は、宿命的な敵同士であると同時に、最も親しい友人になり得る、という関係なのだろう。
これはやはり、ウテナとアンシーとの関係を想起させる。アンシーは、自らの欲望を持たないことで「決闘システム」の空虚な中心であり得た。アンシーは決闘システムの奴隷であり、しかし決闘システムに従属している限りその内部では女王様である。そのような存在に対してウテナは、固有の欲望をもった個人として接し、友人であろうとする。しかしアンシーにはもともと個としての欲望などないので、二人の間にコミュニケーションは成り立たない。ウテナにとって決闘システムは敵であり、アンシーをそこから救い出さなければならないと信じている(そのために決闘システムのなかで勝ち続けなければならない)。しかしその敵である決闘システムこそがアンシー自身であり、そのアイデンティティである。決闘システムの否定はアンシー自身の否定でもある。二つの主体はまったく別の、相容れない作動原理で動いている。「少女革命ウテナ」は、この二人の間に友人関係が成立するまでの長い長い迂回の物語だと言うこともできる。
●紅羽にとってクマ(銀子)は敵である。大切な友人や、おそらく母親をクマによって失っている。クマ(銀子)にとって人は食糧であり、人を食べなければ生きていけない。そして紅羽は、人のなかでもとりわけ美味しそうな食物である。この点において双方は対立し、相容れない。しかしこの二人には、過去において何かしらの(おそらく紅羽の母親を媒介とした)秘密の繋がりがある(黄金の星のチョーカーや王冠)。これは、「ピングドラム」において「運命」と呼ばれていたものに近い効果をもつだろうと思われる。おそらくこの「運命」が、二人の間にたんに「敵対(捕食)関係」では済まされない何か(関係のあり様)の構築を要請することになる。銀子が、紅羽を蜜子(クマ)の攻撃から守ったのは、たんに「とびきり美味しそうな食料」を横取りされたくなかった、という意味以上ものがあることが匂わされている。
まず前提として、世界は殺伐とし、敵対関係に満ちていて、至るところで殺し合いと騙し合いの生き残りのゲームが行われている。しかしそのなかで、それを越え得る、相容れない立場の(けだかい魂をもった者たち同士の)二者の間を貫く何かしらの「別の関係」が生まれることがある。その関係を媒介するのは、過去になされた何かしらの「(ほとんどトラウマと同義であるような)強い約束」である。しかしその別の関係は、通常の殺し合いのなかで勝ち抜くよりもずっと過酷なものとして課されている。殺し合いのゲームのなかで生き残りつつ、同時に、それとは別の原理による関係=約束の可能性が模索されるという二重性が強いられる。おそらく、幾原的世界の基本的な構造は、そのようなものだろう。「ピングドラム」では、テロ事件の首謀者の子供と、テロの犠牲者の妹との間に、「運命」によって困難な関係が貫かれるという形でそれが描かれた。
(一話において、紅羽の撃つライフルの弾は的確に的である木彫りの熊に命中していたが、二話以降、紅羽の撃つ弾は決して熊には当たらなくなる。これは、紅羽が銀子とるるに「出会ってしまった」ということを示すのだろう。つまり、敵であると同時に友人でもあり得る存在に出会ってしまうことは、彼女の生存ゲームをより「困難なもの」にしてしまう。「新しい可能」性はまず、能動力の制限や失調という危機や困難としてあらわれる)
『ユリ熊嵐』では、まず第一に「人間/熊」という対立(これは、生得的で動かしようがない)があり、その人間のなかで、「排除する(透明な)者」と「排除される(好きをあきらめない)者」という対立がある。そしてどうやら熊のなかにも、「本能(あるいは生き残りゲームの原理)に忠実な者」と、「それを逸脱する何か(好きをあきらめない)をもつ者」という対立があるようだ。紅羽(人)と銀子(熊)とは、人間/熊という対立においては相容れないが、「生き残りゲームの原理に忠実/そこから逸脱する何をもつ」という対立においては共に後者であり、「好きをあきらめない」では共通する。しかしここで「クマと人間の対立(捕食関係)」は生得的で、世界の絶対原理なので、それを無視したり超越したりすることは出来ないという縛りがある。
(例えば蜜子は、「熊・原理に忠実」側の存在として、人間における「排除する/される」構造を見切った上で、それ巧みに利用して、つまり、人間に混じって排除の構造を肯定しつつ、排除された者に親しげに近づくことで、「美味しい人間」を捕獲し、自分の利益を最大化しようとする。これが蜜子の生き残りゲームのプレイヤーとしての戦略であった。
一方、銀子やるるは、純花や紅羽のような排除された人間こそが「美味しい」と知っていつつも、排除の構造から距離を置き、すぐに紅羽を食べてしまうことはせず、食べることを保留し、彼女たちが実際に生きるために「食べる」のは、透明な(排除する)、特に美味しくない人間ばかりである。この違いが、今後、どのように効いてくるのか。とはいえ、彼女たちにしても人間を殺して食べていることにかわりはない。)
●ただ、これだけだとまだ図式はやや単調であり、ここに過去の出来事がどう絡んで展開するのかが気になってくる。紅羽の子供時代(とその友達)、紅羽の母、子供の紅羽や母と銀子たち(クマ)との関係、そして母とユリーカの関係、あるいはそもそも嵐が丘学園や花壇の由来、あるいは純花の正体など。
(幾原邦彦は、「ウテナ」の姫宮アンシーや「ピンドラ」の荻野目苹果など、他に類をみない圧倒的にユニークなヒロイン像を創造する人なので、この作品では、誰がそのような存在に育ってゆくのかもとても気になる。)