●グレアム・ハーマン「代替因果について」(岡本源太・訳「現代思想」2014年1月号)の読書ノート。第4節、魅力と因果。これで完結。
すべての「実在的対象」間の関係は、ただある種の「暗示」によってのみ生じる。よって≪美学こそが第一哲学にほかならない≫。大変面白かったです。


4.魅力と因果


実在についてこれほど奇妙な見方をする必要性は?
ハイデガーの「道具分析」による
1.人間意識の背後に対象が脱去する。2.実践的な活動によっても対象の深さは汲み尽くしえない。3.因果関係さえも対象同士を十分に出会わせられない。
→物理的現前---空間的な位置を占める=関係をもつ---実在は関係より深い→汲み尽くせない
○世界は「神託ないし爆弾の群島」→隠された場所で爆発して、あたらしい隠された神殿を生じさせる


「実在的対象」と「感覚的対象」との五つの関係(包含、隣接、真率、接続、無関係)
→そのうち、接続の「起源」に光を当てる
○接続---(1)二者択一(現実存在するか、しないか)で、(2)代替的。
◆探求するもの---そこから「関係(接続)」がわき出てきて現実存在するための「沃土」
→「接続」が生じたら、すでに「それ」はなされてしまっている。
→「無関係」仲介がないまま
→「包含」二種択一(わたしと感覚的な松が、所与の「完全な志向」の内部に「ある」か「ない」か)
→「隣接」境界線の再分配(→感覚的対象の流動的な駆け引き)→実在的な変化ではない
◎残る「真率」こそが《変化の場》であるに違いない
「実在的対象」(無数の感覚的対象に圧迫されている→どうにかして感覚的対象の霧による緩衝を突破し、実在的対象と接続する)→このメカニズムの解明
真率→「(周辺的な偶有と関係に覆われている)感覚的対象」(突破)→連結/解除→「実在的対象」
(感覚的対象との真率から、実在的対象との「直接的(?)」関係へと変容するその仕方をさぐる)


感覚的対象→「偶有」と「関係」から分離可能
→では、「性質」からは?
(本質的性質---それなしには対象を同じものとはみなせないもの)
問題にしているのは「感覚的対象」であり、客観性は問題にならない
→「ビー玉」がそれなしにはビー玉でありえないという「決定的な性質」のすべてをリスト化したとする
→しかしそれは「表層的」であり、感覚的「ビー玉」の本質を捉えてはいない
→対象をいくら分析しても(幾千もの特徴に切り刻んだとしても)、「対象」を統一体として「真剣」に受け取りつづけている
→つまり、「本質的性質」もまた、「全体としての感覚対象」から人為的に分離された浮遊するもの(「偶有」のようなもの)、に、「なること」によってしか述べられたり分析されたりできない=「真率さ」は、分離された「特徴リスト」には関わらない(→感覚的対象から切り分けられた「本質的性質」は、もはや本質的性質ではない、ということ?)
「統一された感覚対象」は「無数の相貌」に優越する(フッサール)
→事物の統一された性質=感覚的対象それ自体
(アリストテレスの問い)事物は本質と同一であるのか→イエス


「事物の統一された性質」の【現実存在】
→(感覚領域が)ビー玉を「わたしの注意の固定焦点」にするところの《いわく言いがたきもの》
◎感覚的対象(の統一された性質)→「わたし」たちに対し(筆舌に尽くせぬ統一された基礎的効果)(どのような特質リストにも還元できない効果)をもつ。


◇ここからわかること
「代替因果」
→「事物全体」(感覚的対象=「統一された性質+特質リスト」ということ?)とのコンタクトなしに、「事物の本質的性質」とのコンタクトを必要とする
→ならば、いかにして「感覚的対象」はその性質から「分けられる」のか


感覚的対象とその性質との分離→「魅力」と呼ぶ
○魅力→誘惑する感情的効果(性質の分離という出来事を伴う)
→関連した用語「暗示」を示唆(「魅力」は「その内的な生を直接現前させることなしに」対象を暗示する)


感覚的領域
(わたし→ノイズ「偶有・関係」で覆われた〈対象〉)
→(わたし→「ノイズ」突破→届く〈本質的性質(しかし偶有に変わる)〉//〜脱去《統合された対象》)
→(わたし→〈本質的性質〉のリストを増やす////〜脱去《統合》)
◎わたしが感覚的対象の「本質的性質に」近づくたびに、その「性質」は感覚的対象(の統一)から、(偶有=特徴と成り下がって)「切り離される」
→この「切り離される」という経験が、「単一の性質」の下に横たわる「実在的対象」を指し示す(暗示する)
→◆「切り離される経験」としての「メタファー」
「我が心臓は炉となりて」
(「心臓(=感覚的対象)」が「炉」=特性と、容易には融合できない(感覚的対象=心臓の圏域に、炉=特質を、「たどたどしく引き寄せる」)→親密な「感覚的対象としての心臓」の下に横たわる心臓=対象への暗示をなしとげる)
◆逆のメタファー「炉は心臓である」
(「心臓の特性」を、「感覚的な炉」の圏域にひきこむ→感覚的な炉はその特徴への従属から解放され、炉=魂の圏域として呼び起こされる)
→ユーモア(ベルクソン『笑い』)
「喜劇的な滑稽者」と「変化する状況に自由に適応できない特性」の間の〈緊張〉→分離された可視的な外見(「行為者」と「特徴」との「分離」→特徴をコントロールしそこなう)


「魅力(=切り離し)」の例
○「美」の対象(「見る者に目眩や幻惑を引き起こす特徴」を活性化する「魂」)
○「言語」(「名前」は、どの特徴より深く対象を呼び出す)
○「愛」(「愛された者」は、外見と欠点という表層の下に漂う、「魔法」)
→リストは膨大(美学の「百科全書」的な仕事によって分類されるべき)「存在論」における美学の重要性。

「偶有」について
○同一の「(完全な)志向」の内部にある「感覚的対象」たち
→隣接しており、解け合うことはない→志向の行為主体(感覚領域における最高判事)によって別々のものとして扱われる
◎しかし「偶有」は(横並びではなく)「事物の上に散りばめられて」いる→周辺性質による粉飾
◇「全体としての感覚的な木」→たった一つの性質(統一)をもつ(しかし部分をもつ)→少しずつ枝葉を取り除いてゆくと、やがて「同じ木」だとみなせなくなる→木はその「諸部分」に依存する
◎しかし「諸部分」は「木」においてのみ「統一」される。
→だが「木」は、「諸部分」を完全に支配するのではなく(完全に喰らい尽くすことはなく)、「諸部分」の「実在」の「限定された部分」のみを用いて、自身の「統一」をつくる(?)
→「感覚的な木」の「偶有」としての「諸部分」は、その(木の「統一」を構成する?)諸部分の残余であり、「新しい対象」に再活用されることのない残滓である。
◆これらの諸部分もさらに諸部分から成り立っており……、無限につづく→ここでは無限に「対象」が見いだされつづけるのであって、「剥き出しの感覚与件」に突き当たったりはしない
カラーピクセルフィールドからオブジェクトゾーンへ、は間違い
◎「緑の点」が「統一された木」より基礎的であるわけではない→どちらも「わたしの真率」を満たし得る「対象」であり、特有の「個人的スタイル」をもつ
◎「緑のピクセル」もドットという空間形式をもつ以上、すでに「入り組んだ対象」である
◇すなわち「感覚的な領域」にあるのは、常に「最大の対象(真率さによって認められるもの)」であって、「最小の対象(アトム?)」は見いだせない
◆部分の、そして部分の部分の、使い残した「残余」が常にあるはず(ピアノの音のはてしない倍音のように)
→★それらの残余=偶有こそが、「変化」の唯一可能な「源泉」である
→「偶有」のみが、対象に「属している」と同時に「属していない」という二重のステイタスを有する
(偶有=「ある感覚的対象」と「別の感覚的対象」との「潜在的な架け橋」)
偶有=《感覚的対象から伸びた誘惑する釣り針》
【感覚的対象それ自体は、常に「既成事実」であり、変化しない→せいぜい、他の感覚的対象によって、消し去られたり、置き換えられたりするのみだ】


「部分と全体との関係」は、感覚的な領域にしか生じない
→実在的対象もまた諸部分からなる→ではどこが違うのか
◎「感覚的対象」の「部分」
→表層に散りばめられている
(「部分」における「特定の相」が融合して「感覚的対象」をつくり、「部分」の「残余」が、表層からノイズとして発せられる)
◎「実在的対象」の「部分」
→内部に包含されており、外皮に貼り付けられているのではない
◆「感覚的…」「実在的…」いずれにしても、部分をおたがいにリンクしている代替因果がはたらいている。


懐疑論(ヒューム)と機会原因論(マルブランシュ)の相補性
○ヒューム---「接続」を疑ったが、彼においては接続は「すでに生じて」いる(二つのビリヤードボールが「精神のうち」にあることには驚かず、ただ、ボールが互いに打撃を与えうる独立の力を有することを「疑う」)
→「経験内部の接続」から出発し(それは前提にされていて)、ただ、それが「外部に分離されている」ことを疑っている
○マルブランシュ---分離された実体の現実存在を前提とする→しかし、「分離された実体」が力を及ぼしあう「共有空間」を疑う→(全存在者の究極の「結合空間」)としての「神の力」


○ハーマン
→(ヒュームのように)「志向の行為主体」が、「分離された諸現象」の「代替因」である
(木と背景の山は区別されるが、わたしが双方に真率に没入することで統一される)
(木の諸部分が融合して「単一の木の性質」を生むとき、わたし「も(?)」「感覚的対象の接続」の代替因である)
→「実在的対象=わたし」が、「感覚的対象」の代替因である
(マルブランシュのような)「神の一撃」としての代替因→受け入れられない
→それに代わって、
【「二つの感覚的対象が、実在的対象によって代替的にリンクされる」のと同様に「二つの実在的対象が、感覚的対象によって代替的にリンクされる」】
《わたしが、他の対象とコンタクトをとれるのは、(内的な生へのコンタクトを通してではなく)「表層を撫で」て、内的な生を揺り動かすことによる》
★「感覚的対象」同士の「隣接」には「実在的な志向の行為主体」が必要
「実在的対象」同士の「接続」には、「感覚的対象による仲介」が必要
(磁石の両極の引き合いのように、反対の性による生殖のように…)
→すべてのコンタクトが非対称的


わたし→感覚的対象以外には出会わない
実在的対象→わたしの感覚的外見にしか出会わない
「代替因果」→二つの対象が、接触することなしに《離れたまま合図を投げかける》ようにして、なにかしら触れ合う
○感覚的な領域→「融合」の代替因果=志向の行為主体(わたし)
○実在的対象→「接続(出会い)」の代替因果=「魅力」(切り離される「性質」による、その下に横たわるものの「暗示」)
(感覚的対象の香りのなかでの堂々巡りから、ただ「魅力」においてのみ逃れ、「魅力」を通じて実在的対象同士は《離れたまま合図を投げかける》ように出会う)


◆実在的対象を感覚的対象にもたらす唯一の方法→部分が全体になるように、実在的対象が「暗示」によって活気づけられるように、感覚的対象を再形象化すること


わたし(実在的対象)→二つの感覚的対象の代替リンク
「魅力」的な木(感覚的対象)→「わたし」と「実在的な木」との代替リンク


◆事物とその性質との「分離」
→(人間経験のローカルな現象ではなく)因果関係も含めた、「実在的対象」間のあらゆる「関係」の根幹
→「魅力」は、(動物の知覚の特殊形而上学にではなく)「全体としての存在論」に属する
(「精神なき土地」を含むすべての「実在的対象」間の関係は、ただある種の「暗示」によってのみ生じる)
★よって、「美学」こそが第一哲学に他ならない