●『天国はまだ遠い』(濱口竜介)をもう一度観た(公開は24日まで)。
http://www.lecinemaclub.com/
実写映画において二つの対概念を考えることができるのではないかと、この映画を観ていて思った。一つは、ドキュメンタリー性とフィクション性の対、もう一つは、(パース的な意味で)インデックス性とモンタージュ(構成)性の対。
ドキュメンタリー性とインデックス性との違いは分かりにくいと思うけど、意味の違いは、その概念自体にあるというより、対になる概念の違いによる。ドキュメンタリー性とは、いわゆる虚構にたいする現実という意味に近い。俳優Aが、映画の物語のなかでBの役を演じるという時にカメラが捉えるのは、Bを演じているAの姿であり、そこでカメラがAの姿を撮っていると考えるのが、実写映画のドキュメンタリー性であり、そこにBがいると考えるのがフィクション性だと言える。それに対しインデックス性は、構成的なものに対して直示的なものを指す。インデックス性とは、カメラ(録音機)の前で起こった出来事がカメラ(録音機)によって直接映像(音声)として刻まれるということだが、モンタージュ性とは、(編集というだけでなく、フレーム内での人物の配置や映像と音声との合成も含めた広義の)モンタージュによってはじめて出来事が生成されることを指す。人が歩いているロングショットがあり、その人が振り返るミドルショットがあるとして、それぞれのショットは、歩く人や振り返る人をインデックス的に捉えているが、二つの映像を繋ぐことで、モンタージュ的な運動(出来事)としての「振り返り」が生まれる
(デジタル映画である時点で写真のようなインデックス性は失われるとも言えるが、ここではそれは問わないことにする。)
そして、縦軸にドキュメンタリー性とフィクション性の対をとり、横軸に、インデックス性とモンタージュ性の軸をとって、四象限のマトリクスを考えることが出来るのではないかと『天国はまだ遠い』を観ていて思いついた。これは実写映画一般というより、この映画を捕まえるためのマトリクスだが。
ネタバレのようになってしまうが、『天国はまだ遠い』のクライマックスは、死んだ姉に関するドキュメンタリー映画をつくっている女と、そのためのインタビューを受けている男とが、抱き合い、その時に、男がインタビューのために胸につけていたピンマイクが抱き合う二人の「心臓の鼓動の音」を拾って、それが響くというところにあると思う。この鼓動の音は、男のものなのか女のものなのか分からない。
(この鼓動の音を、映画作家が後から加工して後から付け加えたということも考えられるが、ここでは、実際に撮影の時に男がつけていたピンマイクが拾った音がそのまま使われていると考える。)
鼓動の音をピンマイクが「図らずも」拾ってしまったと考える時、この映画を構成する要素を四象限のマトリクス上に次のように配置できるのではないかと考える。



鼓動の音は、俳優の身体から発せられた音であり、また、心臓の運動が不随意的であり、演技によってコントロールできないものだとすると、この「鼓動の音」は、ドキュメンタリー的でインデックス的なものであると言える。この鼓動の音は、この映画作品そのものとも、映画が描くフィクションの世界とも無関係に、自律的に、この世界のなかで生きる人物において実際に鳴っている音であり、それがたまたまピンマイクによって拾われた。つまり、この鼓動の音は、映画作品としての『天国はまだ遠い』の外から聴こえてくる。
それに対し、同じくインデックス的ではあるが、フィクション的なものとして、俳優の演技(俳優が「演じる」ということそのもの)があると考えられる。俳優は、(撮影が行われる、その日、その時の)自らの現実の身体を用いて、役柄として、ある人物、ある感情を「演じる」。この「演じるという行為」が、カメラによって直接的に刻まれる。女性の俳優が、死んだ姉を思い出して高ぶって思わず涙がこぼれるという感情を「演じているところ」、男性の俳優が、死んだ女に憑りつかれ、その女として喋るということを「演じているところ」を、カメラは直接捉える。これが、インデックス的でフィクション的な事柄だ。
また、ドキュメンタリー的ではあるが、モンタージュ的なものとして、映画における俳優の身体が挙げられる。前述したが、俳優は撮影が行われる、その日、その時の自らの現実の身体を撮影されるという意味で、実写映画はドキュメンタリー的である。しかしその身体は、フレームによって、空間的にも時間的にも切り刻まれ、撮影が終わった後に、モンタージュによって再結合(再構成)される。例えば、涙を流す女の身体はフレームによって胸の辺りで切り取られ、抱き合う男女の身体はフレームによって腰の辺りだけを切り取られる。また、ある特定のショットは、撮影の後に、編集する人によって、任意の場所からはじめられ、任意の場所で切られる(身体は、ショットの持続時間で切り取られる)。故に、映画における俳優の身体は常に切り刻まれた上で貼り付けられており、ドキュメンタリー的であるが、モンタージュ的なものとして現れるのだと言える。
そして、フィクション的で、かつモンタージュ的なものとして現れるものの代表が、この映画においては「幽霊」であろう。映像的に特殊な加工もされず、特別に幽霊である徴を刻むような特殊メイクがなされるわけでもなく、ごく普通にカメラに映っているだけの女が「幽霊」であると観客が理解できるのは、この映画のモンタージュとフィクションのあり様によってである。ごく普通の姿をした女性なのに、「その場」に対する違和感や、彼女に対する他者の視線の不自然さから、主人公以外からは「見えていない」のではないかと感じられ、さらに物語内容がその予想を裏打ちすることによって、彼女はこの映画作品のなかで「幽霊」として現れることができる。彼女は、この映画の文脈のなか(この映画のフィクションとモンタージュのなか)でだけ幽霊であり、この映画の文脈から切り離されれば、普通の女性(女子高生)の像として示されている。
『天国はまだ遠い』の面白さは、この四象限のマトリクスによってあらわされる四つの要素の(どこか一つを強調するのではなく)すべてを等しく、同時に強く意識させるという点にあると思われる。
●また、ドキュメンタリー的でインデックス的である(映画の外からやってくる)「鼓動の音」と、フィクション的でモンタージュ的である(映画の内側においてのみ成立する)「幽霊」とが、二つの反転的な対称的な三項関係によって等価となるところに、この映画の作品としてのキモがあると考えられる。



ドキュメンタリー映画を撮ろうとしている女(死者・幽霊の妹)と、女によって撮影される主人公の男(幽霊に憑依される)、そして、主人公にだけ見えている幽霊の女(撮影する女の姉)、という三者の関係を、映画を撮影しようとしている女の視点から考えると、パースの言う、解釈項(女)、記号(男)、対象(死者・幽霊)、に当たると言える。また、ハーマンに沿って考えると、実在的なわたし(女)、感覚的対象(男)、実在的対象(死者・幽霊)、と言うことも出来る。解釈項は、記号を通じて対象をアブダクションする。あるいは、実在的なわたしは、感覚的対象を媒介として、実在的対象と間接的(代替的)にのみ関係できる。
この時、実在的なわたし(女)と、感覚的対象(幽霊が憑依した男)とか真率に関係することで生じる第三項として「鼓動の音」があると考えることができる。だから、この「鼓動」は(この映画の文脈の内では)男のものでも女のものでもなく、二者の関係によって生まれたものであり、同時に、二者の関係を媒介するものでもある、二者とは別のメタ的な位置にある第三のものであろう。そして、この二者の関係によって生まれる第三の項(鼓動)こそが、死者である幽霊(実在的対象)に欠けているものなのだ。
つまり、実在的なわたし(女)と感覚的対象(憑依された男)との二者の関係を鏡のようにして、実在的対象(幽霊)の反対側に「鼓動の音」が生じることになる。ここで、間接的には女と関係しながらも、女と男との関係から脱去している「死者・幽霊」と、女と男との関係から生まれ、それを媒介しながらも、その関係から脱去される第三項である「鼓動」とが、映画の内側で生まれるもの(第4象限)と、映画の外側からやってくるもの(第2象限)という対称的な位置にありながら、(像のない鼓動と、鼓動のない像という風に)互いに不在のものを補い合うように、反転的に重なり合う(鼓動が幽霊のようにたちあがる、あたかも幽霊が鼓動を得たかのように感じられる)。
●しかし、このような描像はあくまで、映画を撮影しようとしている女の視点からみた一面的なものである。主人公の男性の視点や、死者・幽霊の視点から観れば、また異なる描像が描けるだろう。例えば、女(解釈項)と幽霊(対象)との二項関係を媒介するもの(記号)は、幽霊に憑依される男であるが、男を視点(解釈項)とすれば、男と女(対象)との二項関係を媒介するもの(記号)は、女の姉である(姉であった)幽霊であろう。また、幽霊を視点(解釈項)とすれば、幽霊と男(対象)の二項関係を媒介するもの(記号)は、クボタ先輩であると言える。
女が、姉である幽霊に会おうとすると、必ず邪魔者(媒介)である男の身体を介さなければならない。男が、美人である女と会いたいという下心をもつとしても、その時には必ず邪魔者(媒介者)である幽霊がくっついてくる(そもそも幽霊がいなければ、幽霊から要請された行為がなければ、女から感心を持たれることはなかった)。幽霊が男から離れられなくなったのは、生前に大好きだったクボタ先輩に思いを伝えようとするときに男の体を借りなければならなったことで、男の人生を狂わせてしまったからだろう。あらゆる二者関係は、間接的であり、代替的な第三者を介することで成立している。
ここでは、男、女、幽霊という三項(二項とそれを媒介する三項目)の関係は、互いに役割を交換しているのだが、三項で閉じてはいなくて、「クボタ先輩」という四つめの異質な存在が関係に噛んでいる。故にこの映画の三人の関係は、それのみで閉じることができない。