●新作なのですぐ返してしまって、だからまたもう一度『ring my bell』(鎮西尚一)を借りてきて観た。やはりぼくはこの作品がすごく好きだ。この映画が、と書かずにこの作品と書いたのは、これがいわゆる映画というものとは別物であるような感じがするからだし、その「別物である」ところがぼくは好きなのではないかと思うから。『み・だ・ら』が映画として傑作なのだとしたら、『ring my bell』それと似て非なるもので、その似て非なる感じにこそ「こんな自由があったのか」という感覚につながっているものがあるように思う。
まだ具体的にどうこうは言えないのだが、この感じはこの作品がデジタルカメラによって撮影されていることと関係があるように思える。異様にコントラストの強く堅い感じの水辺や、画面全体を平板化するほど均質に細部がシャープな森の斜面は、おそらくデジタルだからこその映像で、その均質な広がりこそが、前に進む時間とは別の、漂って広がるようなこの作品の時間を可能にしているように感じる。朝、密造酒を飲んだために、職場の図書館で本を運びながらよろけ、そのまま踊るようによろけながら窓辺まで行く場面の不思議なモンタージュなども、これをフィルムで撮って編集したとしたら、なんというか、もっとあざとい感じになってしまうように思える。演出として、モンタージュとして、意図的にこのようなことをやっていますよ、という部分と、画面に様々なものが詳細に(そして平板に)映り込んでしまっていることそれ自体の強さとが拮抗していて、「このようなことをやっていますよ」という感じがやや後ろに隠れる感じで、だからこそあざといまでに「こんなこと」を押し出すことも出来る、と。明確にベクトルがあることと、しかしその方向性を埋没させかねない程の多方向性があることとが同時に成立している感じ。感覚の過剰や混沌にまでは至らないけど、感覚の秩序の縛りがかなり緩くなって、いわば中心が外される感じで、それによって解放されるものたちの自由の感触が、この作品のなかのいたるところにある感じ。
そしてその感じと、この作品が描いている「芸術家の生活」とでも言うべきものがとても密接に関係している。女の子の両親が留守であることをいいことに、女の子の家に住み込んで、おそらく一日中ほぼ何もしていない二人の男(そのように見えるだけで、実はすごく熱心に音楽をしている、しかしそれは通常の分かり易い意味での熱さとか一生懸命さとは程遠く、それが分からない人には「ゆるさ」にしか見えない)と、それになんとんなく付き合っている幼馴染の女の子。彼らの、朝の練習と密造酒造り、昼の女の子の図書館での労働、帰ってから三人で過ごす時間、が、繰り返し描かれるだけと言ってもいいこの作品の時間が決してダレることがないのは、この二人の男がまさに、リアルに音楽家として存在しているからだと思う。リアルな音楽家が出演しているというだけなら珍しくもないが、作品のなかで、リアルに音楽家として存在している(とはいえ、決してドキュメンタリーではなくそれがフィクションとして演じられているという微妙さがまた面白いのだが)。そして、この二人に付きっている女の子が、二人のやっている音楽をまったく理解していないというところが(これもまたとてもリアルで)面白いのだ。
例えば、屋上に三人がいて、男二人は女の子に新しいデモテープの感想を訪ねるのだけど、女の子はよく分からないとしか答えない場面で、女の子が「そういえば最近、歌上手くなったんじゃない」と言うと、それを受けた二人が、「あー、練習が裏目に出ちゃってるよ」「いや、マジ深刻ですよ」とか言うのだ。こういう反応って、実際に作品を真剣につくっている人からしか出てこないと思う。「上手くなった」という感想に「裏目に出てる」と反応するのは決してアイロニカルなもの(斜に構えてかっこつけてるとか)ではなく、言葉通りの意味であるはずで、たとえあらかじめ台本にそう書いてあったとしても、そういうことを普段からちゃんと考えている人じゃないと、こういう風には言えないと思う。つまり、この場面だけでなく作中を通して、このようなことを「ちゃんと言える人」として、リアルに音楽をやっている人として存在している(おそらくこの点が『ドレミファ娘の血は騒ぐ』と決定的に違う)。この作品は、まさにそういう人たちの過ごす時間と空間についての作品なのだと思う。そして、そのことと、デジタルビデオ的な感触とが重なりあっている。
例えば、ゴダールローリングストーンズやリタ・ミツコのレコーディングを撮影したりしているけど、それは音楽家の創作そのものよりもゴダールによる映像と音声の操作性の方が強く出ているものだけど、この作品ではそれよりも(創作そのもの、というのとはちょっと違うけど)音楽家が音楽家として(作品をつくろうとする人が、そういう人として)存在している時間と空間のあり様に、ずっと近くまで迫っているように思われる。そして、そのような時間と空間のあり様が、ぼくはすごく好きなのだ。その「近さ」が、ライブやレコーディングのドキュメンタリーではなく、フィクション(虚構の設定)を通じて成立しているところもまた面白い。