●『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(浅野いにお)3巻まで読んだ。
いままで浅野いにおは苦手だったけど、これはいい感じ。言ってみれば、イマドキの女子高生の日常を描いているだけとも言えるけど、それをリアルなものとして成立させるためには、ここまで鬱陶しいくらいに様々な要素を「盛る」必要があるのか、という感じが面白い。七十年代の少女マンガだったら、あっさりした描線で、数ページを使ってさらっと成立させるようなことを、様々な要素を盛って盛って、言葉を足して足して、背景をごちゃごちゃ描き込んで描き込んで、重たい数十ページを費やして、ようやく成立させることができる。女の子のちょっとした感情を表現するために、作家の才能、技術、労力、時間をいくらでも惜しみなくつぎ込む、という感じ。
表現のために費やされる熱量の膨大さと、表現されるもののたわいなさのギャップが、その「たわいなさ」のなかに「切実さ」や「リアルさ」、あるいは「固有性」を備給する。もともとリアリズムというのは表現のコストがとても高い(たわいなくみえるものを超絶技巧で表現する)傾向にあると思うけど、そのとても極端な一例のように思われる。今や「日常系」こそが最もコストの高い(コスパの悪い)表現物であるかのようだ。
(この作品を読んでいて、中学生の頃に大友克洋の初期作品――『童夢』より前の作品――を読んだ時の感じを思いだした。この作品と大友克洋の初期作品が似ているというのではなく、中学生のぼくと大友克洋初期作品との「関係」と、今のぼくとこの作品との「関係」が似ている、ということなのだけど。つまり、今までになかった新たなリアリズムの感覚を感じたということ。)
●『おやすみプンプン』で先鋭化した「リアルな背景とデフォルメされた人物との不調和」は、この作品でもとても面白い表現を生んでいる。この作品は五人の女の子のグループが中心になっている。そしてそのうちの二人が主役と言える。面白いのが、主要人物だけど主役ではない三人だ。この三人は、主要キャラであるにもかかわらず、まるでモブキャラのようにデザインされている。
この作品は他の浅野作品よりもさらに、背景がリアルかつ(うざいくらい)詳細に描かれている。そのなかで、主役の二人のキャラでさえ、背景から浮いてしまうように(マンガ的に)デフォルメされている(むしろ主要キャラではない、教師や教師の恋人などの方が、背景にうまく馴染むように詳細かつ立体的に描かれる)。それでも主役の二人は、最低限の表情の多様性や、アップに耐えられる造形性をもってはいる。でも、主要人物だけど主役でない三人は、背景の隅っこにちゃちゃっと描かれている人物のような、少ない表情と類型的な造形性しか与えられていない。つまり、すごくテキトーに描かれた感じなのだ。
(勿論、この「テキトー感」はテキトーに決められたものではなく、練られ、狙われた「テキトー感」であろう。)
そして、そのテキトー感のあるキャラがそのまま、主役に近い役割を演じるエピソードがある。でもその時、そのテキトー感がすごく強い表現力をもつことになる。むしろ主役よりも、テキトー感の特に強い亜衣や凛というキャラの貧しい表情の方が高い表現力をもっているかのようですらある。凛など、物語的にはほとんど活躍の場がないにもかかわらず、ただ居るだけですごく存在感がある。
(あと、顔はテキトー感があるものの、体はとても生々しく描き分けていたりする。このギャップはけっこう重要なのかも。)
あるいはこの作品においては、リアルな背景とデフォルメされた顔の不協和というより、人物によって、背景への馴染み方(背景からの乖離度)が異なっていることの方に不協和感の原因があるのかもしれない。ある人物の顔は、かなりリアルかつ立体的で背景になじみ、別の人物はあり得ない程マンガ的、平面的にデフォルメされているという風に、バラツキが大きく統一感がない。
というか、この作品には、たんに絵柄のレベルだけでなく、設定や物語のレベルでも、この種の不協和がたくさん仕組まれている。