●『スカイ・クロラ』(押井守)をDVDで。予想していたよりかはおもしろかった。最近の押井守としては例外的に良いと思った。
アニメーションの技術的なことに詳しくないのでいい加減な言い方になるが、基本的に平面的である手書きの絵と、はじめから三次元の座標のなかでつくられるCGの画像とは本来なかなか相容れないものだと思うのだが、その合成が、例えば『イノセンス』の頃に比べると格段に熟れてきているのだなあと感じた。おそらく、人物と背景の一部が手描きで、背景の一部とメカがCGで、それをコンピューターで合成しているのだと思うけど、その混ぜ合わせがかなり自然な感じになっているし、あるいは、たんに馴染ませているだけではなく、あえて違和感を出すような構成によって面白い効果をつくったりもしている。そういう視覚的な表現の次元で、面白い場面が多かった。ただ、全般的に戦闘シーンと、雨や水の表現はイマイチだと思った。
この映画の面白いところは、最後までメタ的な視点が封印されているところにあると思う。観客は(あるいは「作品そのもの」は)、最後の最後まで、函南や三ツ矢が知っている以上のことは知らない。原作がどうなっているのかは知らないが、すくなくともこの作品だけを観るのならば、作品内世界がどのように設定されているのかを確定する説明は何もないのだ。凪のような異様な静けさ(ぼんやりとした世界)と、それと裏腹にある閉塞感の持続だけがあり、それを外側から説明してくれるものは何もない。草薙によって語られる戦争ゲームの仕組みにしても、三ツ矢によって語られる(栗田の反復としての)函南の正体にしても、それを客観的に証明するもの、その根拠となるものは何もない。それは当事者によって予測として語られるだけで、それがたんなる妄想ではないという証拠はどこにもない。キルドレと呼ばれる者たちが、実際にはどういうものなのかも、はっきりとは分からないままだ。彼らが自ら語る「世界設定」は、彼らの閉塞感が生み出した幻でしかないかもしれない。登場人物たちだけでなく、観客も、作品自身さえもが、世界がどのようなものなのかを確信を持って知ることが出来ない。押井守には、容易にメタ的、説明的な着地点(自己言及の無限ループのようなもの)に逃げることで、途中から作品が弛緩してしまうという悪い癖が常につきまとっているとぼくは思うのだが、この作品では最後の最後までそこへと逃げることなく、具体的な閉塞感の描写の積み重ねで押し通している(その意味で、クレジット後の反復を予感させる場面は説明的過ぎる、余計な付け足しだと思った)。
この世界が、ほとんど永遠につづく反復で、そこから逃れることが出来ないのではないかという感触は、あくまで、具体的な閉塞感の積み重ねのなかから(妄想かもしれない危ういものとして)浮かび上がるのであって、外側から「設定」として説明されるのではない。この一点でのみ、この作品は最後までリアルな何かを持ちこたえることに成功していると思う。それは、同じ「反復ネタ」でも、「エンドレス・エイト」が、愚直に、あっけらかんと、同じ話を八回も反復させてしまうこととは、真逆のアプローチがなされている。
この作品世界でもっとも重要なのは、草薙に子どもがいるということなのではないか。もし、永遠の反復であるかもしれないこの世界に亀裂を入れる可能性があるとすれば、それはティーチャーを倒すことによってではなく、草薙に子どもがいるという事実によってなのではないだろうか。