●『攻殻機動隊 新劇場版』をDVDで観た。これは面白かった。今まで「ARISE」シリーズはあまり面白いと思えなかったので、一応チェックはしているけどだらだら流す感じで、あまり真面目に観ていなかったけど、もう一度新シリーズを最初から観直さなければいけないなあと思ったくらいには、面白かった。「ARISE」シリーズではじめて「ああ、攻殻を観た」という感じになった。「ARISE」では、アクション場面とその描写に力がすごく入っているのははじめから感じていたのだけど、お話があまり面白いと思えなかった。ここで、アクションの充実にお話の面白さが追いついた感じ。
最初に、「グローバル資本主義」と「国家統治(による正義)」との対立みたいな図式が示されて、そんな単純な対立図式で物語が進むのかとがっかりしかけたら、今度は資本主義の側が、「技術革新派」と「既得権維持派」とで揉めているみたいな話になって、そのどちらの派も結局政治家とつながっているから、最初の対立は何だったのか、となって、次第に、何と何とが戦っているのか、何が敵なのかわからない状態に入ってゆく。おそらくこの作品の攻殻っぽさとは、この、今どういう状況なのかがよく分からないという複雑さにあると思う。様々な人たちがそれぞれの思惑で動いていて絡まった状況を、一つ一つ読み取り、ほぐしてゆく過程を通じて、「様々な思惑の人たち」によって隠された、その向こうにある大きな動きを見つけだす。過去の「攻殻」から様々な要素をもってきて、それをかなり複雑な形で編み上げたという感じで、アイデアとして新しい何かがある感じではないとは思った。
この作品の複雑さの原因の一つに、同型義体、遠隔操作義体、擬似記憶などの要素により、外見や行動様式によってではアイデンティティを同定できないところにある。大げさに言えば、誰が別の誰かであってもおかしくない状態で話が進んでゆく。あるいは、Aのとった行動がAの意思によるものとは限らないという状況。この、誰が別の誰かであってもおかしくないという事自体が、この作品の大きな主題の一つであり、そしてそれが今回の草薙素子の「敵」の姿でもある。作品全体としての二項対立は、強い個というか、ゴーストの唯一性(不可侵性)を強調する草薙に対して、ゴーストの無名性というか、ゴーストは集合離散可能性(書き換え可能性)を強調し、ゴーストの集合性を指向する「敵」という形になっている。台詞としては、草薙によって「ゴーストの唯一性」が強調されるが、この作品に描かれる状況それ自体はむしろ逆で、「ゴーストの唯一性」の維持は困難であることを示している。
(今までの「攻殻」のパターンでは、「敵」は、ネットの集合性のなかから立ち上がった「強い個」あるいは「強い意志」であったけど、この作品では「敵」はただ破壊や混乱を望んでいるだけのようにみえ、「敵」の「意思」のようなものがなかなか結像しない点が新しいのかもしれない。「敵」の理念がみえない、というか、ない。)
そして、この主題が、時系列的にはこの作品の後の事件であるはずの「人形使い」につながっているようにみえる。この作品では、草薙素子とその「敵」とが、生き残るための二つの「可能性」として示されている。そして、草薙がこの世界に留まり、もう一つの可能性である「敵」は「第三世界」と呼ばれるネットの世界へと旅立ってゆく。だが、この後しばらくして、「敵」は「人形使い」へと発展して(いったん集合化したものから再び個が生まれ)この世界へと回帰し、そして草薙と一体化することになるはずだ。生きるために集合化した者たちが、再び個となって、死を求めて帰ってくる。
一つ疑問なのは、この物語を支える大きな要素であるデッドエンドという事柄だ。新たに開発されたバージョンの義体は、古いバージョンで義体化された電脳との適合性がなくて、古いバージョンで義体化した人は、義体の生産体制が新バージョンに切り替えられると、交換するパーツがなくなり、自分の体のメンテナンスもできなくなって、部品が壊れてゆくに従い、次第に朽ちていってしまう、という設定。この作品では、古いバージョンで全身義体化しているのは主に前の戦争で兵士だった人たちだから、バッドエンドは、直近の戦争の負の遺産(あるいは記憶)を、都合よく切り捨ててしまうということの隠喩でもあろう。
いや、でも、義体を持っているのはAIやアンドロイドではなく人間なのだから、いくら血も涙もない資本主義だとしても、古いバージョンの部品の生産は完全にやめてしまいますから、あなた方は朽ち果ててください、という話が、社会的に承認されてしまうことはちょっと考えにくいのではないか。裏で酷い事をしているとしても、少なくとも表向きには何かしらの大義名分は必要なのではないか。というか、そもそも互換性のない形で新しいバージョンの義体を開発することなどあり得るのだろうか。
さらに言えば、時系列的にはこの物語の後の話となる、既に作られている「攻殻」の諸作品ではデッドエンドは全く問題になっていないのだけど、その時点でも当然、旧型の互換性のない義体をもった人が生きているはずなので、これはかなり重大な齟齬ではないか。というか、九課のメンバーたちの義体も旧型ということになるのではないか。
(「攻殻」の別シリーズは、同じ基本設定をもった、別の可能世界の話なのだとすれば、そこに齟齬はないのかもしれないけど。)
●アクションと同様、草薙の顔の表現もかなりこだわっているように見えた。基本的にはもちろんクールのなだけど、時々、人形にしか見えない表情があったり、逆に、ふっと人間らしい感情や幼さを見せることもあったりで、この点、大人バージョンの草薙が登場する既にある「攻殻」より表現性が高い。沢城みゆきのロジコマもとてもいい。あと、コーネリアスが劇伴としてしっくりくる感じになってきた。