2022/05/11

●『攻殻機動隊 SAC_2045』のシーズン2の配信が、もうすぐ始まるようなので、どんな話だったか思い出すために『攻殻機動隊 SAC_2045 持続可能戦争』の劇場版をNetflixで観た。二時間でいい感じにまとまっていて、そうそう、こんな話だったと思い出した。

シーズン1は、(ちょっと長すぎる)プロローグで、話が面白くなりはじめたところで終わってしまったのだった。神山版の「攻殻」では、物語を引っ張っていくのはいつもトグサなんだよなと改めて思った。クールでプロフェッショナルな九課のメンバーのなかにあって、クールに(プロフェッショナルに)なり切れないトグサの「青さ」が、「敵」の側の動機の「青さ」と共振して、巻き取られていくことで、物語が動いていく。

九課とは、公安九課であり、体制の側にいる。とはいえ、彼らには体制の側にいる必然性はないし、また逆に、反体制の側にいる必然性もない、野武士のような集団だ。彼らはたまたま、アラマキの要請により体制の側にいる。体制側にいる彼らの敵は、反体制、または革命家ということになるが、これもまた、たまたまだ。

とはいえ、ことはそう単純ではなく、アラマキおよび九課は、体制内にいる反体的的勢力であり、体制のなかで体制と闘ってもいる。神山版ではしばしばそうであり、このシリーズもそうなのだが、ここでは首相こそが、体制内の反体制の代表であり、体制(この場合はアメリカ追従や既得権者の不正)と闘っている。神山版では、首相が理想化された政治家像になっている。

(単純な、敵=悪は成り立たない。ポスト・ヒューマンは敵ではあるが、彼らのやっていることはレジスタンスであり、彼らなりの「理」がありそうだ。アメリカ側のジョン・スミスは、九課や首相にとって体制内体制としての「敵」ではあるが、彼らは彼らで、ポスト・ヒューマンの脅威から国民を守ろうとしているわけで、「悪」というわけではない。)

神山版の複雑さはここにある。彼らは、体制のなかにいて体制と闘いつつ、あからさまな反体制と(一部共感しつつも)闘っている。彼らはむしろ、表向きの味方(体制内体制)よりも、表向きの敵(反体制)の方に親和的だ。味方こそが敵であり、敵が時に味方でもあり得る。

九課の面々が、体制にも反体制にも、どちらにもいる必然性がない(どちらにいてもかまわない)のは、彼らがスタンドアローンとして自律していて、どのような体制下でも生きられるからであるが、同時に、彼らに「青さ」が欠如しているからでもあると思う。

体制内反体制であれ、ベタな反体制であれ、闘い(自分自身の生の範囲を超えた「正義」)のためには、現実主義や功利主義に収まらない「青さ」が必要であるが、彼らは実力主義以上の正義を必要としない(スタンドアローンであり得る実力をもつことが彼らの正義で---リバタリアンアナーキズム---エドワード・スノーデンイーロン・マスクといったリバタリアン・エリートが「攻殻」を好む理由もそこにあるのだろう)。クサナギは押井版「攻殻」で、「私とは何か」という問いはもつが「正義とは何か」という問いはもたない。プロフェッショナル=実力主義だとすれば、トグサはそこからこぼれ落ちる「弱さ」をもっている。九課のなかで異質なトグサのみが、時に正義を必要としてしまう「青さ」をもち、その揺らぎが物語に必然性を与えるのだと思う。

(シーズン1では、トグサが消えたところで終わっていたが、劇場版ではもう少し先があって、それもまた興味深かった。)