2022/05/10

●『噂の女』(溝口健二)。この映画のすばらしさの三分の一くらいは、舞台となる京都の置屋のセットをつくった美術の水谷浩の力によるものだろうと思う。基本的にだだっ広い平坦な空間を、完全に仕切ることなく隙間をもたせつつ、衝立とか暖簾とか障子とかを使って、いろいろなやり方で細かく仕切っていく。どこにカメラを置いても、何かが演じられているメインの場とは別の場が、背景やフレームの隅などに映り込み、そこが別のリズムで動いているのが見える。いわゆる、深い縦の構図みたいなものをわざわざつくらなくても、多くのカットが、多層的、多平面的なフレームになっている。

古い置屋の、伝統的な和風のつくりの建築。その離れの(完全な離れという感じでもないが)和室が、東京から帰った娘のための寝室として洋風にしつらえられている。また、離れの向かいに、娘のために、ピアノやミシンの置かれた部屋もある。置屋のなかで異質であるこの空間は、ほとんど開けっぴろげの置屋空間のなかで例外的に、障子が閉められている。ただ、異質とは言っても、全体として伝統的な和風建築としての統一感はあり、また、閉ざされているといっても、たかだか障子であり、それは簡単に開かれる(田中絹代は、障子を開いて娘と医師のいちゃいちゃを暴く)。

客の男性以外は、みんな和装である置屋に(客の男性もすぐに浴衣に着替えるから、ほぼ和装だ)、オードリー・ヘプバーンをほとんどそのまま引用してコラージュしたような洋装の久我美子(娘)がいる(この映画は、『ローマの休日』の翌年につくられている)。この和装空間のなかに(現代劇のなかの現代女性である)彼女をどのように配置し、どのように動かせばよいのかということが、この作品においての溝口のチャレンジだったのではないか(それは、置屋の和風建築のなかに、どのように娘の洋風の部屋を配置するのかという、セット設計の問題にも通じるだろう)。この映画で彼女以外で洋装を貫くのは、母(田中絹代)の若い恋人である医師(大谷友右衛門)だけだろう。だから、洋装同士の二人が仲良くなるのは必然だ。ただ、オードリー・ヘプバーンをほとんどそのまま借りてきたような、典型的な「現代女性」である久我美子に比べて、歌舞伎俳優でもある大谷友右衛門は、どこか時代がかった中途半端な感じで、この感じがまた、(最悪のクソ男である)この役にぴったりだ。

この映画は非常に皮肉な調子で終わる。古いタイプの「置屋のおかあさん」である母と対立し、女性の体を売って生計を立てる家に生まれたことに強い嫌悪と罪悪感をもっていた娘が、「母の恋人がクソ男であった」ことで母に共感して母と和解したとたんに、あたかも「置屋のおかあさん」が天職であるかのように振る舞い、すっかり場になじむ。そしてそこへ、体を酷使して病気で亡くなった太夫の妹が、自分も太夫にしてくれと頼みに来る。「現代女性」もまた世間の波に飲み込まれ、結局世界は変わらない、と。「あてらみたいなもん、いつになったらなくなるんかいな」と言いながら、底の厚いぽっくり下駄で歩く、太夫のすばらしい歩行のリズムで映画は終わる。

(久我美子は、母同様に「相対的には良い(太夫たちを大切に扱う)置屋のおかあさん」になるだろうし、それは決して悪いことではないだろう。というか、「この状況(この世界)」でそれ以外に何ができる? 、ということではあるが。)