2022/03/25

●『凱里ブルース』(ビー・ガン)からは、老成と素朴とが同居している、後に巨匠となる早熟なシネフィル系監督の初期作品という雰囲気がプンプンと感じられる。作品として似てはいないが、雰囲気としてベルトルッチの『革命前夜』とかカラックスの『ボーイ・ミーツ・ガール』、シネフィル系ではないが大島渚の『太陽の墓場』などを思わせるところがある。同時に、映画というものは20世紀的なもので、重厚長大な被写体を撮る時にこそ輝くという意味で、(スマートであることが支配的である現代において)メディアとしてノスタルジックであることは免れないのかもしれないと、重機であるショベルカーが重機である大型トラック荷台から降りるところを撮った、思わず見入ってしまうカットなどを観て思う。まだ若いビー・ガンが、映画という前世紀的なメディアにおいて今後どのような仕事をしていくのだろうと考えたりもする。

●『凱里ブルース』では、時間の前後関係が曖昧であるだけでなく、人物の固有性もまた曖昧だ。主人公は、弟に育児放棄された弟の息子ウェイウェイを引き取るために旅に出るのだが、旅の途中で出会う青年もまたウェイウェイであり、さらに、ウェイウェイの境遇は(母から一時捨てられていたらしい)主人公の境遇と重なるところが多い。また、主人公の同僚である年配の女性医師は、息子を交通事故で亡くしており、その時にろうけつ染めのハンカチを血で汚してしまったと語る。主人公が旅に出る(そして青年ウェイウェイに出会う)直前に、そのろうけつ染めのハンカチらしいものの図柄がクローズアップされる。そのカットの次に青年ウェイウェイが現われるので、ウェイウェイは女性医師の息子とも重ね合わされている。

(旅先で出会うのは、ウェイウェイの幽霊であり、妻の幽霊であると、考えられなくもない。)

主人公は、旅先で出会った床屋の娘を、服役中に死んだ妻と同一視するのだが、この時彼が着ているのは、遠くにいて闘病中だという古い友人(昔の恋人?)に、同僚の女性医師が送ったシャツだ。つまりここで主人公は、主人公として死んだ妻に会っているのと同時に、女性医師の昔の恋人として、過去の女性医師と会っているということでもある(昔の恋人が女性医師にしたように、主人公は床屋の娘の手を懐中電灯で温めようとするし、昔の恋人が女性医師に渡したカセットテープを、ここで主人公が床屋の娘に渡す)。二つの役の重ね合わせが起きている。

(また、青年ウェイウェイと、彼が追いかけている若い女ヤンヤンとの関係---女性が凱里へ発って別れ別れになる---は、女性医師と昔の恋人との、かつての関係を思わせるものでもある。)

主人公は、若い頃にはチンピラで、ボスの息子を殺した者たちに復讐したことで、9年もの間刑務所に服役していたということになっているが、現在は医者である。出所した後に医者になる勉強をすることも不可能ではないとしても、やや不自然であり、現在の主人公と過去の主人公がまるで別人のようにも感じられる(一人が二人のよう)。さらに、敵対関係にあると言っていい主人公とその弟とは、どちらも視覚的に際立った特徴がないので、見分けるのが難しくて時々混同してしまう(二人が一人のよう)。

(追記。主人公は医者じゃなくて看護師なのかもしれない…。)

(追記。出所した時の車中の場面で、ボスから貰った金で母が医院を買い取った、みたいなことを言っているから、医院は主人公の持ち物で、そこで年配の女性医師が働いている、ということなのだろう。女性医師が住み込みで働いているので、二人は「冷蔵庫」を共有している、と。弟が「本来自分のものだ」と言っている「家」とは、医院のことか。しかしだとしても、「私が注射します」とか言っているので、主人公はたんに医者の手伝いをしているのではなく、少なくとも看護師ではあるはず。)

時間が過去から未来へと進行することが決定的ではなく、現実の空間と夢の空間が分かれていることが決定的ではないように、ある人物がその人物でありつづけることも決定的なことではないような時空が成立している。

(追記。まず、おそらく結婚前、主人公が妻とデートしているインサート的に挿入される過去の場面があって、店の男からカラオケで歌うことを求められた主人公が「音痴だから駄目だ」と断る。次に、出所した---これも過去の---場面で、妻の死を知らされる前に主人公は、刑務所で「妻のために歌える曲を憶えた」と言う。さらに、旅に出た後の長回しの場面で、ライブに向かう若者たちに囲まれた主人公は「ポップスは駄目だ、せいぜい童謡だ」と言う。すると背景に「ジャスミン」が流れる。これらの伏線があって、死んだ妻と同一視される床屋の女と出会った主人公が、あなたに向けて歌うと言って、ライブをしている若者たちの演奏で、とてもたどたどしく下手くそな「シャスミン」を歌う。ここでようやく「妻のために憶えた歌」が成仏する。伏線とはこのように、ある地層が映画全体の流れのなかで地上に顕れては地中に伏せられるリズムのことだ。そのような地層がたくさん走っている。)

●主人公は、母の夢のなかで聞こえていたというミャオ族が吹く蘆笙を聴くために旅の途中で寄り道をするのだが、ちょうどその日に限って笙を吹く師匠たちが不在だという。その後、主人公は旅の終点として、同僚の女性医師の昔の恋人の家にたどり着くのだが、恋人は既に亡くなっていた。そして、笙を吹く師匠たちは、彼の追悼のために彼に家に出向いていたから不在だったのだ。ここで主人公は図らずも蘆笙の音を聞くことになる。主人公は子供の頃、母に置き去りにされてこの土地にいたようなので、蘆笙の音は、母の思い出ではなく、母の不在の思い出ということなのだろう(主人公が見る母の夢でも、母はでてこなくて、母の靴だけがでてくる)。そしてここでは、同僚の昔の恋人の不在を示すものとして蘆笙の音が響く。それは同時に、主人公の死んだ妻の不在の響きであり、(引き取ることを諦めた)ウェイウェイの不在の響きでもある。あるいは、「今ここ」そのものの不在かも。