2023/09/20

⚫︎『すずめの戸締り』(新海誠)をU-NEXTで観た。前回の『天気の子』もそうだったが、今回もすごくシンプルな話だ。ほぼ見たままで全てがわかるように語られており、深読みや考察の必要がない(世界観としてはほぼ「カエルくん、東京を救う」だと思う)。ただ、最後のところが二重になっている。『君の名は。』でも『天気の子』でも、そして『星を追う子ども』でもそうだが、新海誠の作品は、最後は黄泉の国に降りていって死者を蘇らせるという展開になるのだなあと思っていると、死者=恋人は、主人公の「未来」を担うので救われるが、死者=母は、彼女の「過去」であるから、母の死は「受け入れる」ということになる。

(この物語は、一目惚れした男性にどこまでも徹底的に食らいついていくという狂気じみた女性の話であり、自分の中に「狂気の恋愛」を見出すことで「母の死=災害から受けた傷」をようやく自分の内に受け入れることができたという、とても激しい話でもある。「死ぬのが怖くない=生の実感のない」が故に狂気じみた行動をすることができる女性が、男性に一目惚れすることによって発動されるその「狂気じみて極端な行動」の中で「生への執着=未来」を得る。彼女は自分を大切にしない。その捨て鉢とも取れる行動の極端さの中に、彼女の受けた傷の深さが表現されている。自分を大切にしない女性が、一目惚れした男性を救おうとする自己犠牲的な行為の中で、男性と共に行きたいという生への執着が生まれ、ようやく「自分を大事にすること」を知る。これは、ダイジンを犠牲にしてでも男性との未来を得るという排他的で利己的な欲望の発動でもある。このような過程が、母の死の受け入れにつながる。)

(災害は、多くの人の命という重たいものを突きつけて、女性に「わたしの欲」を持つことを強く抑圧する。女性は一度、自分の欲望を抑制して愛する男性を「要石」とするが、一度火のついた彼女の「強欲」は、それを再び取り戻せとうながす。彼女の強欲が彼女に再び未来を与えるのだが、その時彼女は「彼女に愛されたい」と願ったダイジンの存在には見向きもしない。もちろん、彼女は何も悪くない。彼女に愛されないと悟ったダイジンは生を諦め、自己犠牲的に自ら要石となる。ちょっと「攻殻」のタチコマを思い出させ、ぼくなどはどうしてもダイジンの方に思い入れてしまうのだが。)

⚫︎ただ、この作品はなんといっても「イス最高」の一言に尽きるのではないか。イケメンは最初と最後しか出てこなくて、あとはずっと「イス」だ。イスだからこそ、人間には絶対に無理なアクションが可能になる。これこそがアニメではないか。個人的にこういうのが大好きなので、前半はずっと「イス最高」と思って観ていた。後半は、いつも通りの(『君の名は。』以降の)新海誠かなあという感じ。

⚫︎日本のアニメでは、なぜか絶対の掟のように、主人公は、子供でなければ若い女性か男性だ。だが、今までの作品を見て思うのは、新海誠には「少女」に対する思い入れは希薄であるように感じられる。ただ、ある程度以上の規模の作品では中心にいるのは少年と少女でなければならないという掟に従って、そうしているということであるようにみえる。この映画でも、実は叔母さんをもっと突っ込んで描きたいのではないかという感じがある。新海誠は、これだけ世界的な興行の成功を積み重ねているのだから、次くらいは、中年女性を中心とした企画を提示してみても、プロデューサーは受け入れるのではないだろうか。それによって日本のアニメの「別の可能性」の開けがあるのではないか。

(今回はRADWIMPSの曲が流れなくていい感じだと思っていると、最後に流れてきてガクッとなる。ただ、今回は明らかに付け足し的にあるだけで、作品の内容に深く食い込んでいないので、次には、もうなくてもいいのではないか。)

⚫︎最初の場面の、自転車が坂を下っていく運動感が素晴らしい。この感じは、まず「坂の傾斜を撮る」ということからしてとても難しい実写映画ではどうやってもできないのではないか。『君の名は。』でもそうだが、新海誠の坂道の描写は唯一無二だと思う。それと、片側が山の斜面になっていて、もう片側が谷になって落ち込んでいる道路に視点がある時の、空間の広がり。これは例えば『星を追う子ども』でも見られるが、この感じも新海誠独特のものだ。この感じは、単に構図だけでなく、カット割りや、空に飛んでいる鳥がフレームに入る時の入り方とか、あと音の使い方とか、それらすべての要素の統合の仕方によってできているのではないかと思う。空間の描写と身体運動の絡め方という点で、宮崎駿の後継者は新海誠だと言っていいのではないか。この作品でも、イスが、まるで『未来少年コナン』のコナンのように動いていた。