2022/04/25

●『デビッド・リンチのホテル・ルーム』は1993年につくられた3話からなるオムニバス。その3話目の「Blackout」はリンチの作品のなかでも重要だと思うのだが、現状ではソフトを手に入れることがほぼ出来ない。こういう場合は仕方がないと自分を納得させて、YouTubeで検索してみる。「David Lynch Hotel Room」で検索するとけっこうヒットする。日本語字幕付きのレーザーディスクの映像をアップしているものまである。

「ホテルルーム」は、ニューヨークのホテルの603号室を舞台に、1969年、1992年、1936年の3つのエピソードからなり、一話目と三話目をリンチが監督している(脚本は『ワイルド・アット・ハート』のバリー・ギフォード)。「Blackout」は、1936年の話。妻の治療のためにオクラホマからニューヨークへやってきた夫婦が、診察の前の晩に停電したホテルの部屋で会話する。冒頭にホテルのボーイ(カイル・マクラクラン)が出てくる以外は、二人しか登場人物がいない。「Hotel Room」の英語版ウィキペディアには、ギフォードの脚本は17ページしかなかったが、リンチはそれを47分に仕上げ、基本として1話30分という目安でつくられているこのドラマの3つのエピソードのなかで最も長いものになった、と書かれている。そしてこの「長さ」が重要だと思われる。

脚本だけみれば、ちょっとした気の利いた小話程度のものだろう。二年前、少し目を離した隙に子供が湖で事故死してしまい、それを受け入れられなくて精神に変調をきたしている妻と、彼女を支える実直そうな夫が、停電で暗い部屋(稲光と轟音)のなかで、並行して噛み合わない会話を交わし、しかしその会話のなかで妻が少しずつ現実を受け入れるようになり、最後にちょっと奇跡的な感じで二人の会話が噛み合って夫婦の意思疎通が起る。

このちょっとした会話劇を、それを超えた特異なものにしているのは、第一にアリシア・ウィットの過度に緊張した身体表情であろう。これは、適切な狂気の表象でもなく、逆に(ありがちな)誇張された狂気の表象(女性=狂気という紋切り型)でもない。狂気の表象ではなく身体の表現化がなされていると言うべきだと思う。彼女の中空を見つめる異様に強く見開かれた眼は、何かを表現しているというより「表現的な質」を獲得している。そしてその表現的な質がその場に与える緊張が、テキスト上の「妻の狂気」とたまたまシンクロしているに過ぎない。彼女の身体は狂気を演じているのではなく、時空に緊張状態をつくりだしている。

夫(クリスピン・グローヴァー)は妻の傍らに寄り添い、見つめ、抱きしめるが、その夫の行為やメッセージは妻には届いていないようだ。夫は、外から妻を抱きしめられるだけで、妻の内側から外へ向かう「表現の質」には届かない(表現の質の持続に介入できない)。夫の「声」は妻に届いているようだが、そのメッセージが妻を動かすことはなく、その表面を波立たせるだけだ。

妻には、妻の身体独自の展開(持続)があり、夫はそこに介入できない。逆に、夫は妻を注意深く見つめているので、夫の行動は妻の変化(展開)に大きく影響を受ける。夫は妻の声を聴こうとするが、妻は自己の展開に忠実である。ここに非対称的な二つの身体の持続(展開)がある。妻の展開の独自性(夫の介入の届かなさ)は、たんに会話の不成立(妻が突飛なのことを言う)によって表現されるのではない。妻の身体における緊張と弛緩、夫への受容と拒絶、仕草やリズムは、唐突に、非連続的に変化する。また、そのような身体のありようとセリフの内容との間に「適切な結びつき」が感じられない。テキスト(セリフ)の持つ意味や感情と、身体の表情から感じられる意味や感情が一致しない(狂気じみたセリフを狂気じみた調子で喋るとは限らない)。また、セリフの連続性と、身体表情の連続性も一致しない(連続した感情をもつセリフの途中で、身体表情の非連続的変化が起ったりする)。複数の表現の流れ(身体、顔、声の抑揚、テキスト)の間に適切なシンクロが起らない。

そしてこの作品におけるアリシア・ウィットの身体をもっとも特徴付けるのは、間の不適切さだろう。彼女は、間をあけるべきではないところで間をあけ(あるいは、間をあけるべきところで間をあけず)、さらに、しばしば適切な間よりもずっと長い間をあける。そして、抑揚もリズムも非連続的に唐突に変化する。「わざとらしく意味ありげな間」よりも、さらにより長い間(沈黙、停止)。このようなリズムの失調により、「意味ありげな間」の「意味ありげ」が過剰供給されることになり、「意味ありげ」の量に対して「意味」の量が足りないという不均衡が起る。意味が供給されることのない「意味ありげ」が充満することで「適切な意味(常識的時空)」が見失われる。

ここで、不適切(狂気)は、実(意味、表現、見えるもの)の側に生じているというよりも、虚(間、切れ目の位置、見えないもの)の側に生じている。脚本の内容に「狂気」が書き込まれているというよりも、17ページの脚本を47分の作品とするという間の不適切さのなかに「狂気」が孕まれている。