07/10/13

●しつこくリンチ。ある人から、『インランド・エンパイア』のウサギ人間のシーンや『マルホランド・ドライブ』の黒幕的なおっさんの部屋のシーンでの、微妙な俯瞰ショットの不思議さを指摘されて、それを気にしながら『インランド・エンパイア』を観ていたら、「ロコモーション」のかかるダンスシーンでも、ほぼ同じ感じで俯瞰のカメラ位置が選択されていた。常に、空間を潰したり、歪ませていたりしているこの映画で、カメラがこの位置にくる時だけ、空間が普通に成立している。しかし逆に、この普通さが確かにとても妙な感じなのだった。幽体離脱的なポジションというか。
考えてみれば、『ロスト・ハイウェイ』では、このような幽体離脱的な視点こそが主題となっていた。ある夫婦が自分たちの家の玄関に置かれたビデオテープを観てみると、そこには、家の内部を俯瞰っぽい位置から撮った映像が映されていた。それはエスカレートして、次の日に置かれていたビデオでは、寝室で夫婦が寝ているところが、微妙に俯瞰的な位置から撮られていた。『ナイト・ピープル』という映画でのリンチのインタビューでは、このアイデアを思いついた時に、これをもとに映画が出来ると思って、すぐにバリー・ギフォードに一緒に脚本を書こうと連絡したということだった。
このビデオ映像はつまり、この映画の主役である「ある男」(この映画では主役の男は二つの身体-イメージに分離している)の、視線から分離したもう一つの視線(精神分析的に言えば「眼差し」)が外在化したものだといえる。おそらく人は、潜在的に、自分を含む空間を、三次元的な座標として外側から捉える空間把握のマトリックスのようなものを内在させており(そのようなアルゴリズムが無意識に働いているからこそ地図が読める)、ちょっとした危機的状況になるとその眼差しが「外にあるもの」として意識化される。意識が混濁している時に、自分の寝ているベッドをやや高い位置から見ているような感じをもったり、あるいは、暗い夜道を歩いている時に、誰かの気配を感じたりする。前者は自分を見る自分として、後者は、自分を見ている誰かとして、潜在的アルゴリズムが実体化する。『ロスト・ハイウェイ』で、男に視線の分離を促すのは、妻への強い不信であり、そしてこの視線の分離が、おそらく男に別の人物への変身(分裂)を促す。
そしてこのビデオ映像はある日とうとう、ベッドルームで惨殺される妻の映像を映し出す。勿論、妻を殺したのは男であるのだが、男にはその記憶はない。つまり妻の殺害は、男から分離したもう一つの視線によってしか意識されない。こうしてみると、リンチは本当に、同じような映画ばかりつくっている。
リンチの映画は、行為や出来事ではなく、徴候や幻想によって出来ている。つまり徹底して非アクション映画だと言える。「ある女」や「ある男」は、外的な環境や行為することから切り離されることによって、世界を徴候で満たし、空間を幻想的に歪ませる。それは能動性の放棄であり、世界を複数に分裂させ、自己の同一性さえ解体する。(しかしそれによって、誰でもない誰かという地平が僅かに開かれる。)一方、目的をもった能動的アクションは、本来バラバラに分裂しているはずのものを、強引に結びつける作用がある。つながらないショット、繋がらない空間、つながらない時間、そして、バラバラな身体部分、分裂する自己は、目的をもつアクションによってアクロバティックにつなぐことが出来、バラバラな世界はそれによってシンクロし、統合を得る。例えばトニー・スコットは、現在と四日半前という、本来つながらないはずの、まったく異なる時間-系を、アクロバティックなアクションによってつないでしまう。確かにそれは健康的なことではあろう。中井久夫は次のように書く。
《頭のなかが乱れてまとまらないときに何かからだを機能的に使うことをすると一種の統一感が生じます。スポーツのあいだは悩まないでしょう。行為というのはいっときに一つのことしかできません。大声を出すのも、いっときには一つのことしかしゃべれませんから、同時にいくつもの考え頭のなかをかけめぐっているときには統合の方向、コントロールの方向に向かうのです。特に恥ずかしい考え、あられもない考えのときです。》(『こんなとき私はどうしてきたか』)
リンチの映画はあくまで、《頭のなかが乱れてまとまらない》まま、《恥ずかしい考え、あられもない考え》が生起する場所(原-私としての欲動の場?)に留まる。