●税務署まで歩いて行く。最短距離を歩けば三十分ちょっとで着くが(そもそも電車に乗れば五分だが)、遠回りして一時間くらいかけて行き、帰りもまた、別の道を通って、一時間くらいかけて帰った。小学生の時、歯医者に行きたくなくて、すっごく遠回りして帰ったことを思い出した。けっきょく行かざるを得ないのだったが。というか、書類を提出するだけなのだが。
●帰ってから、喫茶店にお勉強に行くまでの間、一時間くらい仮眠した。午後からぐっと冷え込んだらしく、目が覚めたら、部屋もからだも冷えきっていた。冷えたせいなのか、目覚める直前にはソフトクリームを食べる夢をみていた。ソフトクリームなど、少なくともこの十年以上は確実に食べたことがないのに。
●『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(リヴェット)と『インランド・エンパイア』(リンチ)のDVDを、一時間ずつ交互に観る、ということをやってみる。まず『セリーヌ…』を一時間、次に『インランド…』を一時間、それを二度繰り返した。両方とも三時間の映画だから、まだどちらも一時間ほど残っている。この二本は、表面的にはまったく似ていないが、どこか共通点があるように思われたから。
しかし観てみると、やはりかなり違う。リヴェットの映画は、外にあるものを、人によって操作可能なものの内側に押し込め、その内部で操作を施すことによって、人とその外部の関係をも変化させようとする。押し込める内側とはつまり、映画という箱であり、屋敷という箱である。リヴェットの映画が遊戯的だというのは、フロイトの孫の糸巻き投げが遊戯であるというのと同じような意味をもつと思われる。母の出現と消失という本来操作出来ないものを、遊戯によって象徴的(それは同時に想像的でもある)に操作することによって、世界そのものを操作可能なものに書き換えようとする。その遊戯の成立が、外側の世界をも象徴化(想像化)する。そのためにはまず、操作(反復)可能で安全な内側の遊戯的時空が確保されなければならない。幼児はまずそこで世界に象徴的に働きかけるトレーニングをする。リヴェットにとってそれは映画であり、ジュリーにとってそれは幽霊屋敷である。リヴェットの映画はだから、幾分か箱庭療法のようである。箱庭(=映画)が世界の鏡像となることで、人は世界へ、まるで箱庭に働きかけるように働きかけることができるようになる。
今回観直すまで忘れていたが、幽霊屋敷はもともとジュリーが子供の頃に住んでいた家の向かいにあり、だからその中で永遠に反復されているのは、そこで殺された少女の記憶ではなく、幼い頃のジュリーの妄想の記憶であろう。幽霊屋敷の中にあるものはそのまま、ジュリーの部屋の行李のなかにもあるのだ。だからこの映画は、セリーヌとジュリーが殺された少女の幽霊を救出する話ではなく、ジュリーが自らの子供の頃の妄想を干涸びさせる話で、そのために相棒として、自身の反転的鏡像のようなセリーヌが呼び出される(セリーヌはまず手始めに、ジュリーの子供の頃の男の子との性的な想い出を破産させる)。だからある意味、『セリーヌ…』という映画は、延々とつづき出口がなく永遠に映画のなかに留まるかのような長い時間をかけて、映画からの脱出の夢が語られているかのような、矛盾した力の拮抗する場でもある。リヴェットの映画に頻出する、広いお屋敷、舞台、地図、すごろく等は、いわば現実の鏡像である箱庭のバリエーションであり、そこで遊戯が上演されることで、それが世界へとひろがり、そこでの出来事が世界へと影響してゆく。
リヴェットの映画は遊戯的であることで人をリラックスさせ、何度でもやり直しのきく試行錯誤を可能にし、そこに世界への思考(世界の書き換え)を生む余地が出来、しかしその切迫性の消失によって人を常に軽く退屈させる。この退屈こそが幸福でもあるので、人は遊戯への愛着をもちつづけ、その内部に留まりたいとも思う。しかしリンチの映画では、そのような余裕が成り立たない。観客はそれを、場面場面によって、ひどく面白がるか、わけもわからず笑ってしまうか、激しく拒絶するか、思考停止に陥ってただ受容してしまうか、強い睡魔に襲われてしまうかする。事の成り行きをリラックスして眺めつつ、軽く退屈するとこうことはあり得ない。そこにはそもそも、遊戯が成り立つような、外側から区切られた内側という領域が確保されない。
とはいえ『インランド…』の最初の一時間は、随所に混乱の予感を散りばめながらも、決定的に混乱に陥ることはない。裕福な夫をもつ女優が大きな役を得るが、その相手役の男優との不倫が予言され、夫もまたそれを不審に思っているようだ。撮影が開始され、二人の関係が微妙に接近してゆくとともに緊張が高まり、撮影されている映画がいわくつきのものだということもあかされる。あやしい雰囲気や混乱の予感が濃厚に漂いつつも、基本的にはありふれた話ではある。映画内現実と映画内映画とが混線するなどというのも、きわめてありふれている。ところが上映時間が一時間になろうとする頃、唐突とも言えるタイミングで、女優と男優との性交シーンがいつともしれない時の、どことも知れない部屋で演じられた時から、あらゆる時空の秩序が滅茶苦茶になる。女優は、「あれは昨日のことだった」と語りはじめ、回想シーンにはいってゆくかのようだが、しかしその昨日の出来事は、決して今日(今)へ辿り着くことはなく、まったく方向をうしなって暴走する。そこから先は、金持ちの女優から貧乏な女へと分身が分裂し、今までの流れとは関係のないポーランドの場面が混じるようになり、どこともしれないどこかにたむろするビッチたちの世界もあらわれ、同じ俳優が複数の世界で役を交換し、それらの複数の世界は暗い廊下といくつかのドア(と電話)によって結ばれているかのような感じになる。たんに世界が分裂するだけでなく、出来事の順番もバラバラになり、どの場面が先でどの場面が後なのかも分からなくなる。
セリーヌ…』においても、最初は幽霊屋敷内部の出来事が、時空の混乱した断片として与えられる。しかしその混乱はあくまで屋敷の内部に留められ、セリーヌとジュリーは、その外側の安定した時空にその断片を持ち帰って検討することが出来るし、その出来事は毎日反復されているのだから、何度も屋敷を訪れて、再び三たび、それを経験し直すことも出来る。二人は経験を持ち帰り、(地図を読むように)断片的映像を読み、検討し、そしてそれを書き換えるための能動的な行為を試すことができる。しかし『インランド』の女優は、混沌を、お屋敷や映画といった箱庭(舞台)の内部に押しとどめることができない。混沌は世界全体に滲み出し、すべてを浸す。女優はだから、混沌に呑み込まれながら、混沌のただなかで、混沌から(表象の舞台という次元を設定出来ないまま)直接的に徴候を読み取り、何かしらの判断をし、そこに介入する隙間を見つけ、それを書き換える行為をなすことを強いられている。勿論、その行為そのものもまた、混乱したものであらざるを得ない。時空の秩序も、人物の同一性すらも確保されない世界でそれをしなければならないのだから。観客もまた、一時間を過ぎたころからの唐突な展開に戸惑い、無理矢理に整合性を見つけ出そうと躍起になったり、そんなことは諦めてただその映像のテクスチャーを味わうことにしたり、あるいは睡魔に負けて眠てしまったりするようになるだろう。しかし、「それは違うだろう」と、作品が発する徴候が語りかけてくる。この混沌そのものをしっかりと見ろ、と。もし、その混沌に働きかけ、働きかけることが出来なければ、この、時空を失った、裏切りと暴力と殺人の気配が支配する混沌のなかに、永遠に居続けなければならなくなるのではないか、と。しかし、どうすればよいというのか。その試み=行為の目的とは、決して、たんに時空の秩序を回復するということだけではないようにも思われる。この混沌の世界は、時空の秩序が成立しているその下でも、既にうごめき、存在しつづけていたらしいのだから。
しかし女優は決して孤独ではないようだ。この混乱した世界のなかにも(同一性さえ確保されないにもかかわらず)何人もの人物がひしめいているようなのだ。彼、彼女たちは、それぞれバラバラにこの世界のなかに散って、それぞれが混乱し、嫉妬し、不審を感じ、裏切り、殺し、殺され、しかし同時に、この暴力の世界から脱するための何かを求めて動いているかのようでもある。彼、彼女たちは、女優と同じ目的で行動したり、時に女優を助けたり、あるいは女優を殺そうとしたりもするし、ビッチたちのように、女優の傍らで彼女を励ましつづけもするだろう。女優に対するビッチたちは、ジュリーに対するセリーヌのような自己の鏡像ではなく、もっと匿名的で多様な他者たちの刻印が押されているように思われる。