ICCで永田康祐の「Sierra」を観てきた。恵比寿映像祭で観た時は、何か仕掛けがあるのではないかと思ってパソコンをいじり過ぎて、なにがどうなっているのかよく分からなくなってしまったのだけど、まずはただ観ていればよいのだと分かり、ようやくちゃんと観ることができた。
http://www.ntticc.or.jp/ja/archive/works/sierra/
●「Sierra」とはmac最新のOSだそうで、その名はシエラネバダ山脈に由来するという。PCが勝手に起動し、まずそのデスクトップの画面(山脈の画像)があらわれる。しかし、静止画であるはずのデスクトップ画像が画面奥へとトラックアップを始めたかと思うと、その画像の風景の説明が男性の声のナレーションで流れる。カットがかわり、俯瞰的にその山脈の位置が示されたり、様々な角度からの映像が示されたりする(この映像は高精細であり、崇高とも言える自然の風景を映し出している)。PCを操作するための地であり、平面であるはずのデスクトップ画像が動き出すことによって、そこに奥行きが生まれて図になる。すると、フレームとして物質的なディスプレイが意識され、そのフレーム=図の背景として、現実的な三次元空間が意識される。同時に、アイコンやメニューバーが配置され、カーソルが移動するデスクトップの表面が、ガラス窓のような透明な平面として意識される(たとえば、日本語字幕もまた、そのガラス窓にへばりついている)。
この時、三次元空間、そこに置かれたフレームとしてのディスプレイ(が映し出す映像)、その表面の、アイコンやカーソルの配置されている透明な窓=平面、という三つの層が意識される。この三つの層のなかで、観る者が注目するのはデスクトップの映像(ディスプレイというフレーム)であり、三次元空間は背景としてあり、アイコンやカーソル(のある透明な窓=平面)は、風景を意識している時、窓のガラスの汚れを強く意識しはしないのと同様に、強く意識されることはない。
●次に、ウィンドウが勝手に開き、グーグルのストリートビューのものだと思われる映像が現われ、こんどは女性の声でナレーションがはじまる。この作品のナレーションは、男性の声も女性の声も、テキストを読み上げるソフトによるもので、人の声ではない。ウィンドウがあらわれることで、観る者の注目のフレームはウィンドウに移動し、デスクトップの映像は背景へと後退する。すると、三次元の空間は、背景のさらに背景となって意識から遠ざかり、そして、アイコンやメニューバー、カーソルが、デスクトップという地の上で、ウィンドウのフレームと同列の平面上にある図ように感じられて、(ガラスについた汚れではなくなり)存在感を増すように感じられる。
●デスクトップの映像は、シエラ山脈を地理的条件や自然的景観として、俯瞰的、あるいは公式的にとらえるもので、ナレーションもそれに伴っている。しかし、ウィンドウで示される映像はストリートビューのものであるため、視線が人間的な位置にあり、そこで語られる話も、人間的なレベルの話である。ここで女性の声のナレーションは「私の記憶」について語っているのだが、ここで「私」と発話しているのは人工の音声であり、声によって「私」の所在が明らかになるわけではない(「私」と語っている者---私自身---はどこにもいない)。幌馬車に乗ってミズーリからカリフォルニアを目指して旅をしていて、シエラ山脈に行く手を阻まれたというのだから、ここで語られている事実はおそらくかなり古いものであり、この出来事の記憶を語っている「私」はおそらく既に生きてはいないであろう。そのような意味でも、語る「私」は存在しない。
(だから二つの異なるフレーム=層の間には、スケールの大小、公的な語りと私的な語りの違いだけでなく、時間的、時代的なズレもある。)
だが、この二つの異なるレベルのフレーム、異なるレベルの語りは完全に乖離しているわけではない。そもそも、デスクトップ映像によって示される自然(シエラ山脈の地形や気候)が、ウィンドウによって語られる凄惨な出来事の条件(背景)となっている。デスクトップに属するナレーションが、山脈の降雪や積雪の状況について語った後に、ウィンドウに属する語りは雪によって旅路の行く手を阻まれたことを語る。さらに、ウィンドウに属する語りが、遭難した一行のうち子供たちだけが救助隊によって助けられたと語った後に、デスクトップに属する語りが、絶滅寸前になったシエラオオヒツジが、政府による回復プログラムで個体数が増加した(絶滅から救われた)ことが語られる(救助者によって、子供たちやヒツジが救われる)。後者は、条件と出来事の関係ではなく、出来事の比喩的な関連だと言える。
このように、二つのレベルのことなるフレームは分離しながらも通底したり、響き合ったりしている。
●二つのフレームによる二つの語りは交互にあらわれ、その度に観る者の関心の中心となる層=フレーム(図と地の関係)は移動する。そして、語りが終わると、PCは自動的にシャットダウンされ、しばらくして再起動して、また同じ出来事が繰り返される。幕は閉じ、そしてまた幕が上がる。ここで、時間というフレームがこの作品を枠づけている。作品が現象している時間だけでなく、それが沈黙する「間」の時間もフレーミングされる。PCがシャットダウンされることで、観る者は強制的に三次元空間(自分が今、立っている場所)に戻される。
●ここまでならば、この作品は普通の映像の作品とあまり変わらない。しかしこの作品は、ネットに接続されたPCを「支持体」としている。デスクトップ画像が勝手に動き、語り出すし、ウィンドウも勝手に開いて語り出すが、それらとはまったく無関係に手元のマウスとマウスパッドをつかってPCを操作することができる(キーボードは設置されていないが)。いわば(多層化された)『セリーヌとジュリーは舟でゆく』の屋敷のなかの出来事のようで、ただ自動的に語っているだけなので、PCをそれとは別の使い方を勝手にすることも出来るし、しないでそれを眺めることもできる。別のウィンドウやアプリを開いて、別のフレーム(別の層)に自ら能動的に関心を移すことも可能だ(ただ、時間が来ると自動的にシャットダウンされる)。
リヴェットの映画『セリーヌとジュリーは舟でゆく』で、幽霊たちによって繰り返される演劇は、屋敷を舞台としているが、それはいわば、屋敷という空間のもつポテンシャルのごく一部分を借り受けて行われているに過ぎない。幽霊たちによって演じられる演劇を無視すれば、屋敷の空間で自由に振る舞うことができるし、その屋敷に住み込み、生活することすらできるかもしれない。同様に、この作品は、PCという「支持体」のもつポテンシャルの、ごく一部だけを占有することで現象している。
この作品は、PCのなかに、PCの機能の一部を借り受けて存在しているが、PCという支持体の全機能をのっとっているわけではなく、その一角に間借りするように存在している。とはいえ、この作品に間借りされることで、PCは強く色づけられ、制約を受けることにはなる。いわば、PCに狐憑きがとりついたようなもので、それによって生の機能すべてが乗っ取られるというわけではないが、生活には大きく支障をきたすだろう、という感じとパラレルだと言える。
●画面の右上には、四つのリンクがあらかじめ仕込まれてもいる。一つは、YouTubeに繋がっており、そこではキューブリックの映画『シャイニング』の映像の一部が流れる。ウィンドウに属するナレーションで女性の声は、雪に閉じ込められた一行が飢えに苦しみ、それに耐えながら冬をやりすごす様を語っているし、その背後には、仲間の(人の)肉を食べたのではないかという事実も匂わされている。映画『シャイニング』もまた、雪に閉じ込められた場所で追い詰められ、狂っていく話だという意味で、ウィンドウに属する語りとの連想的(換喩的)な連関がある。
二つ目のリンクは、国立公園財団に関するニュースを受け取るための入力フォームのページに繋がっている。デスクトップ映像とそれに属するナレーションでは、シエラ山脈の西にある国立公園が、この山脈のなかで最大規模の動植物の生息地であることが示され、語られている。二つ目のリンクは、この国立公園についての語りや映像と関連している。
三つめのリンクには、グーグルマップで、ミズーリからカリフォルニア州サクラメントまで、車で移動する際の経路が示されているページと繋がっている。これによって、ウィンドウの映像に属する女性の声が「私の記憶」として体験的なレベルで語る旅の経路を、俯瞰的な(そして現代的な)地図のレベルでみることができる。
四つめのリンクは、macの、OS「Sierra」を紹介するページと繋がっている。そこには「macOS High Sierra あなたのMacを、さらなる高みへ。」という文字が示されている。そもそも「Sierra」というOSの名は、シエラ山脈にあるホイットニー山が、アメリカ本土で最も高い標高をもつことからきているであろうということが、この広告コピーによって理解される。クオリティが高いことと、標高が高いこととが、比喩的に重ねられているのだ。
一つめは、ある出来事(記憶)から別の出来事(フィクション)への連想的なつながりが示され、二つめでは、具体的な情報収集への経路が示され、三つ目では、体験的なレベルの語りが俯瞰的なレベルに変換される視点の変換のためのツールへと繋がれ、四つ目は、この作品のもう一つの支持体であるOSの紹介(一種の自己言及)へと繋がっている。おそらくこの作品は、OSにつけられた名と、そのデスクトップ画面から発想されたと推測でき、それが。OSについての紹介へと戻っていく。
これらの「予め埋め込まれたリンク」は、観る者に、それ以外のリンク(操作)の可能性もあることを示してもいるだろう。
●この作品の支持体は、PC(ハード)であると同時にOS(ソフト)でもあろう。OSが、自分自身の名の由来にかんする自己言及を行っているとも言える。しかしこの、自分から発して自分に返ってくる自己言及的なループはメディウムスペシフィックなものではなく、連想や比喩を介して様々な事柄へのリンクを派生させ、それらのリンクは様々な異なるフレーム(層)を形成する。そして観る者は、その様々なフレーム=層へと注意を移行していくことで、それに伴い、その都度、図と地の関係(あるフレーム=層と別のフレーム=層との間で生じる、前景-背景関係)が変化していく。観る者はこの作品を、OSの自己言及(支持体の不透明化)というよりも、様々なフレーム=層の重ね合わせとして経験するのだと思う。
たとえば、フェルメールの絵を観るとき、われわれはそこに、さまざまなレベルの異なるフレームが重ね合された状態を観ることになる。描かれた状況そのものというよりむしろ、フレームの多重性そのものを観ている。「Sierra」においても同様で、そもそも、作品を観ている「私」は、シエラ(OS、山脈)そのものに対しては何の関心もないのだが、そこにあらわれるフレーム=層が、重なったり、ズレていったりする様に惹かれていく。
観る者がそこに見出す「対象」は、高精細の自然の映像だったり、撮影対象である実際の(地球上の)山脈への想起であったり、人工音声が語る凄惨な記憶だったり、あるいは人工音声の不思議なニュアンスだったり、ストリートビューの粗い画像だったり、モノとしてのディスプレイだったり、カーソルやメニューバーだったり、PCから繋がっているリンク先(見えない奥行きとしてのネットワークそのもの)だったり、PC(計算機)の「計算する機能」だったり、自分が立っているこの場所(ICC)だったり、それらの重なりやズレ、あるフレームから別のフレームへの移行の感覚そのものだったりするだろう。