2023/10/14

⚫︎昨日の日記で、七里圭高橋洋との間にある、類似しつつも相違している要素として、母と娘という主題、プロジェクションという技法、の二つを挙げたが、それに加えて、映画と演劇との共存という要素もあると気づいた。要素は重なっているが、その在り方が全く違う。

⚫︎『アナザサイド サロメの娘 remix』(七里圭)をU-NEXTで観た。前作(『サロメの娘 アナザサイド (in progress)』)とは違って、完成された音がまずあって、それから映像が作られるというわけではないようだ。ワンゲル部の場面や、ラスト近くの「喋れない人?」「喋れます」という台詞やり取りなどは同時録音であるようにみえる。観ている間は、例外的に異物のように挿入されるワンゲル部の部分のみが同時録音(あるいは同時録音+事前に作られていた音)で、それ以外の大部分の本編的パートは事前に(映像が撮影される前、あるいは編集されるより前に)完成されている音に映像が重ねられているのだろうと思っていた。つまり同時録音の(「映像レベル」が前面に出る)部分は本来のパートに対して対比的に「付け足された要素」であるのだろう、と。しかし、ラスト近くに突然、中心的なパート、テキストと音とが先行しているはずのパートの登場人物が直に台詞を喋り出すのでびっくりする。この台詞のやり取りは、並立する複数の紗幕を突き破るように貫いて突出する。中心的パートの中ではこの場面でだけ、映像のレベルが、音のレベルそしてテキストのレベルを押し除けて、(最後にやってきた)自分自身の存在を単一的に主張する。「in progress」に対して「remix」でなされた「新しいこと」は、映像レベルが(複数の層を貫く)突出をなす、この瞬間を成立させることだったのではないか。

⚫︎「実の(リテラルな)透明性」という時の「透明性」という概念は、よく言われるレイヤーとは微妙に違う。通常は、複数のレイヤーが重ね合わされて一つの面が形作られる。あるいは、一つの面ではないとしても、複数の面が一つの(何かしらの)パースペクティブを成立させる。しかし、透明性という概念では、一つの面やパースペクティブに統合されないという点が重要になる。異なる複数のパースペクティブが、あるいは異なる複数の「地」が、統合されないままたんに重ねられている。ここで複数の層とは、テキストのレベル、音のレベル、映像のレベルというだけでなく、テキストなり音なり画像なりの、それぞれのレベルにおいても統合されない複数が並立されている。

⚫︎テキストのレベルでは、まず、娘と母の関係が捩れを孕みつつ反転的に重なり合うという中心的な語りのパートがある。しかしそれとは別に、飴屋法水によって語られる(おそらく『サロメ』からの引用だと思われる、『映画としての音楽』からずっと引き継がれている)言葉たちがあり、また、ワンダーフォーゲル部の部員たちの対話は、娘と母のパートと関連を持ちつつも、全く別のトーンを持っている。母と娘のパートが中心であるとはいえ、それぞれ出所の違う別のパートがそこに従属し、統合されるわけではない。また、娘と母とのパートだけをとっても複数の層がある。たとえば、母が吊り橋を渡って「向こう側」へ行って帰ってくると獣のような様子になっているという(変身的な)イメージがまず語られるが、しかしその「向こう側」は次第に、並行世界、可能世界のような様相になって、複数の異世界間を母が移動しているかのようなイメージになる。そして終盤では、「向こう側」は隣の家にある劇団となって、母はそこの俳優で、異世界とはフィクション=演劇であり、また、娘の知らない「外での人間関係の中にある母」を表すものでもあるようなイメージとなる。これらの異なる諸「向こう側」像は、どれか一つに収斂することなく、食い違ったまま重なり合っている。

⚫︎映像のレベルでも複数の層が重なっている。まず中心に、黒田育世、工藤美岬、長宗我部陽子による、娘と母のパートがあるのはテキストと変わらない。しかしこのパートは、黒田育世と工藤美岬のパートと、長宗我部陽子のパートに分かれ、キッチンと玄関先という一部の空間を共有しながら、決して交わることがない二つの層を形作っている(あるいは、切り返しでしか繋がらず、同一フレームに入ることのない黒田育世と工藤美岬もまた、別々の位相にいるというべきかもしれない)。他には、ワンダーフォーゲル部のパート、飴屋法水のパート、影絵芝居のパート、馬と海のパート、野焼きの炎と暖炉の火が交わるパート、そして一瞬だけ現れる「生首」のパートなどがあり、一部、重ね合わせられたり、響あったりしつつも、それぞれに分離したまま並立している。

さらに、これらの映像が、そのまま一次使用されるパートと、複数の映像がオーバーラップされたり、メタ的空間に投射されて使われたり、メタ空間と実写的登場人物のモンタージュが行われたりして、二次的に加工されて使われるパートに分かれる。また「remix」では「in progress」との時間差が強調される。「remix」でも「in progress」でも、クライマックスに黒田育世によるダンス場面となるが、「remix」では長髪だった黒田が「in progress」では短髪となっており、この二つの異なる時間に属する二つのダンスが「remix」では重ね合わせられる。

⚫︎幾つもの層が「実の透明性」を形作るように重ねられているということは、それぞれの層の間には距離があり、切り離されていて、それらが積み重なったり混ざったりしているように見えるのは、たまたま観客が複数の層が重なる位置にいて、それらを透かして観ているからに過ぎない。そこで感知されるのは各層間に「距離がある」という感覚であろう。「remix」で印象的だったのは、長宗我部陽子が何度かする、中空に手を這わせて、何かに触れようとする仕草だった。それは、重ね合わされた別の層へと向けられた仕草であり、しかし別の層はそこにはなくて遠くにあり、手はなにものにも触れることはなく空振りする。しかしそれでも手を伸ばさずにはいられない。この作品を観るということはつまり、この仕草を反復することであるようにも思われた。