2022/04/23

エリア・スレイマンが2009年につくった『The Time That Remains』という映画をYouTubeで観ることができる。ただしこの動画の概要欄には《I do not own any rights to this movie.》と書かれているが…。

レイマンは、2009年にこの映画をつくってから、2020年の『天国にちがいない』までの間、『セブン・デイズ・イン・ハバナ』(2012年)の一篇となる短篇一つを作っただけだ。

この映画はおそらく、パレスチナにとって歴史的な日を選び、その事件を直接示すことなく、それを背景とした出来事を提示するという形で出来ていると思われるので、パレスチナの歴史に一定以上詳しくないとその含意するところが充分には理解できないと思われる。とはいえ、それが分からなくても分かる映画としての面白さはある。

この映画は自伝的なものとされるが、半分は父についての映画で、もう半分がスレイマンを中心とするパートだ。そして、前半と後半とをはっきりと分けるのが行動=能動性の有無だろう。父は、イスラエルに対する抵抗運動の闘士であり、銃を密造し、そのためにイスラエル軍につかまって暴行を受けたり、銃殺される寸前まで行く。また、政治運動だけでなく、たとえば近所に住む、ことあるごとにガソリンを被って自分に火をつけようとする困った爺さんをなだめ、自死を思いとどまらせる役割りを担うというレベルでも能動性をもつ(近所の人たちの役に立つ)。

対して、後半のスレイマンのパートになると行動=能動性がほぼ成り立たなくなる。スレイマンは「見る(聴く)」だけの人で、ただ見て、ほんの僅かな心の揺らぎを感じさせる、微かなリアクションを見せるだけだ。彼は、状況のただ中に入り込んで、自分の能動性によって状況に何かしらの影響を与えうるということを信じていない。彼のする能動的な行為は、テラスに佇む年老いた母のために、スピーカーをテラスに持ち込んで音楽を流すことくらいだ。病院に担ぎ込まれた母が、治療を拒否するように経鼻チューブを外しても、それを止めることもしない(止めようとするが拒否され、それ以上無理強いはしない)。

このような、「状況を変えようとする能動性」の有無は、ただ登場人物の性質の違いとしてあらわれるだけでなく、それに合わせて映画としての形式も変化していく。この映画は四つのパートに分けられると思うのだが、最初のパートはスレイマンが生まれる前、1948年にイスラエルが建国されナザレが降伏する出来事が描かれる。ここでは、市長を乗せた車が白旗をなびかせながら山道を爆走していくモンタージュや、父やそのいとこが怪我人救助のために荒々しく坂道を下っていくカットの構成など、激しいアクションが随所にみられる。ここで父は、イスラエル軍から銃口を突きつけられ、殴る蹴るの暴行を受け、崖の上から落下させられもする。後半の「見る人」であるスレイマンのパートと対比されるように、このパートで父は、目隠しされている時に最も良く「見る」「聴く」ことができるのだった。

二つ目のパートでは、父と母が結婚し、スレイマンも生まれて、集合住宅というか、長屋風のところに住んでいる。父は健康を害しているようで、派手なアクションを見せることはない。せいぜい、近所の爺さんを諫めるくらいの能動性しかもたない。しかし父はまだ「運動」を諦めたわけではないようで、夜釣りのフリをして武器の密輸にかかわっているらしい(その疑いをかけられただけかもしれない)。演出やモンタージュも、最初のパートとは随分異なって落ち着いたものになる。このパートで少年であるスレイマンは、教師からしばしばその「思想的傾向」について注意を受けるが、これはおそらく父の影響であろう。

三つ目のパートで青年となったスレイマンは、イスラエルの国旗を裂いたことで非難され、国を去らなければならなくなっている。ここで「国旗を裂く」という能動性はあるが、それにより国内の状況への参加という能動性を奪われることになる(この事件は母が書く手紙で語られるだけで、スレイマンが国旗を裂く「能動的な」場面はない、画面上の青年スレイマンの能動性は極めて薄い)。国旗を裂く行為は「表現」ではあっても「運動」とは言えないだろう(この点で父とは異なる)。さらにここで父は手術を受けており、母も糖尿病になっている。このパートから「行動する父」は背後に退き、青年スレイマンによる「見る」という行為が前面に出てくる。スレイマンは状況に参加することはなく、しかし状況をしっかりと見る。このパートの最後では、病気ですっかり弱った父を、青年スレイマンがじっと見る。

(抗議行動で負傷した患者を、治療しようとする医師たちと逮捕しようとする軍人たちが奪い合うこという、ある意味で壮絶な出来事が、ロングショットで冷静に、というかコメディであるかのように示される。北野武の『ソナチネ』で、ビートたけしの決死の殴り込みが天井に反射する光と遠い銃声だけで示されるのと同じような距離感。このような撮り方は、人のもつ有機的能動性から乖離しており、最初のパートの行動的なモンタージュとは大きく異なる。)

そして最後のパートは、国外から戻った現在のスレイマン(スレイマン自身が演じる)。家には年老いた母がいて、父は既にない。ここに来てスレイマンは「見る(聴く)」以外の行為はほとんどしなくなる(喋ることさえない)。母はほぼ存在するだけであり、スレイマンはほぼ見るだけの人である。それに対して、住み込みで糖尿病の母の世話をする(英語を話す)看護師と、彼女に惚れているらしくしばしば家に訪れて家事を手伝う警察官が、コメディリリーフ的な振る舞いをみせる(介護し、家事をするという能動性は、この二人が担う)。活動家であった父がいた頃は、この家に警察官がいることは不吉な印でしかなかったが、今やまったく無害化している。

この映画は、自ら経鼻チューブを外し死を望んでいるかのような母(母の手には父の写真)を病室に残し、スレイマンが一人で、病院のロビーを行き来する人々を「見ている」場面で終わる。そして、エンドクレジットに流れるのはビージーズ「Stayin’Alive」のカヴァー曲なのだった。

ドゥルーズの「シネマ1」と「シネマ2」とを、映画の前半と後半とで律儀に実践しているかのような映画だ。ここで「見る人」は、状況の外から第三者的に見るのではなく、状況のただ中で、状況に巻き込まれつつ見る人なのだが(状況のただ中だからこそ能動性が失われる)、それでもただ「見る」という行為は、状況の差し迫った「いま、ここ」からは少しズレ、そこからこぼれ落ちて、世界の別の様相を浮かび上がらせる。そしてこの後、『セブン・デイズ・イン・ハバナ』と『天国にちがいない』のスレイマンは、ほぼ「見る」ことに徹する。そこで示されるのは「見られた世界」と「見る身体の(極めて微かな)リアクション」となる。