2023/07/15

⚫︎『逃げた女』は驚くべき映画で、一つ一つの場面を息を呑むように観たのだが、『イントロダクション』はそこまですごくはない感じで、面白いと言えば面白いが、手ぐせと言えば手ぐせかなあと思いながら観ていたのだけど、最後でやられてしまった。

⚫︎まずは「タバコの映画」。あまりにも「またタバコ」「またタバコ」「またタバコ」となるので、明らかに意図的に(ある意味、露悪的に)やっているのだが、それにしてもタバコに頼りすぎではないか、という感じはある。タバコという小道具が映画にとっていかに優秀なものなのかということが、この映画を観るとよく分かる。タバコがあるだけで、俳優の佇まい、仕草、間、を際立たせられ、そのバリエーションも広がり、ちょっとした連帯の感覚や共通の場をどこでもさらっと作り出すことができる。しかも、ホン・サンスのタバコの使い方超うまい。しかしだからこそ、もしタバコがなかったらどうするのか、とも思ってしまう。タバコの使い方のバリエーションをどれだけ見せられるか、ということをやろうとしているわけだろうが。

⚫︎物語というか、因果の連鎖の「本線」があるとすると、ここでホン・サンスは、その本線とギリギリかすっているような周辺部を選んで描写を重ねる。それによって、背景と背景の隙間として図柄が見えるみたいな感じで、相互の関連性がよくわからないいくつものエピソードを通り過ぎた後に、事後的に物語の本線が明らかになるという構築の仕方をする。それは面白いと言えば面白いが、一方で、その手口はもう見えているという感じでもある。

この映画の中心には、シン・ソクホとパク・ミソというカップルがいる。周囲から美男子と称えられるシン・ソクホは俳優を目指しており、一方、パク・ミソは衣装の仕事がしたくて、勉強のためにドイツに留学する。しかし二人とも夢は叶わずに挫折し、二人の関係も破綻してしまった。物語の本線は、ここにあると言えるだろう。だが、話の中心にいるカップルを直接描いている場面は、エピソード「2」の終盤、たった一つだけなのだ。

例えばシン・ソクホが俳優を目指していたことは、最後の「3」のエピソードで(俳優となることを諦めたそのあとで)観客には初めて知らされる。おそらく「1」のエピソードで、父親から呼び出されたシン・ソクホが、たまたま同じ時に父の病院で治療を受けていた有名な俳優(キ・ジュボン)に出会い、勧められたことで俳優になろうと思ったはずだが、その場面は示されない。そもそも、シン・ソクホがどのような理由で父に呼び出されたのかもわからない。「1」では、「父の苦悩(これも理由がわからない)」と、「キ・ジュボンの治療」、そして「シン・ソクホと(おそらく)父の後妻との交流(そして抱擁)」が、それぞれ関係なくバラバラなまま示されるのみだ。

(追記。「1」でシン・ソクホと抱擁する女性は、父の後妻ではなく、父の病院で昔から働いている女性で、だからシン・ソクホのことを子供の頃から知っている人、なのかもしれない。)

「2」のエピソードでは、衣装の勉強をするためにドイツに渡ったパク・ミソのもとへ、いきなり(衝動的に)韓国からシン・ソクホがやってきて、別れているのは辛いと言う。そして、母はお金がないが、父なら裕福だから、父に頼んで自分もドイツに留学させてもらおう、二人でこっちで勉強できたら最高だ、と言って二人は抱擁する(ここでシン・ソクホの「勉強」が俳優になるための勉強であることを、この時点で観客は知らない)。しかし、その「望み」がどうなったかわからないまま「3」になり、「1」に出てきた俳優(キ・ジュボン)とシン・ソクホの母が二人で酒を飲んでいる場面になる(それが「2」からどのくらい時間が経過した後なのかもよくわからない)。

「2」で主に描かれるのは、パク・ミソの持つ不安と、彼女の母の古い友達であるらしいキム・ミニの気難しそうな佇まいだ。キム・ミニは、明らかに自分がやっていけるかどうか不安を感じているパク・ミソに「この世界で最もうまくいっている人でさえ大変な仕事だと言っている」みたいなことを言ってさらに要らないプレッシャーをかける。この映画の裏のテーマ(というかむしろ「表」のテーマかもしれないが)は、若いカップルに対して、周囲の年長者たちがいかに過剰で理不尽な圧をかけているのかというところにあるのではないか。

「3」のパートは、年長者の俳優と母とが、息子を呼び出してお説教するようなエピソードだ。そんな場面が面白くなるとは思えない。だから「3」のパートを成り立たせているのは、なぜそこにいるのか分からない、場違いな第三者の存在だろう。母から呼び出されたシン・ソクホは、なぜか全く無関係の友人を一人連れて、母と俳優に会いにゆく。この友人の存在が生む違和感が「3」のエピソードに変化をつける。謎の第三者である彼こそが「3」のパートを支えている。

観客は「3」で初めて、シン・ソクホの願いと挫折を知り、さらに、最後の夢の場面で初めて、パク・ミソの夢も叶わなかったこと、そして二人が別れてしまっていることを知る。前の場面でシン・ソクホは、自分には愛する女性がいるのに、演技で他の女性と抱き合ったりキスをしたりするのは罪だと思った、それで俳優を諦めた、と語る(それに対しベテラン俳優は理不尽なほどに激昂する…)。そう語っている現在では、彼は既に「愛する女性」も失っていて、いわば二重の喪失の中にいたのだ(ということが事後的に分かる)。そういう状況でシン・ソクホは「夢」をみる。

波打ち際に横たわるパク・ミソに声をかける。彼女は、病気が辛いので死のうと思っている、と語る。目の難病でいくら医者を変えても良くならない、この病気はあなたと別れたことでバチが当たったのだと思っている、ドイツ人の夫とはもう別れた、などと言う。それに対しシン・ソクホは、難病から立ち直った人はいくらでもいる、きっと大丈夫だ、一緒に頑張ろう、みたいなことを言う。

なんと酷い夢なのか。未練たらたらで、しかもそんな相手に「罰」を与え、その上で「上から目線」で救いの手を差し伸べようとする。自分こそがお前を救えるのだと言わんばかりだ。シン・ソクホは、愛する人がいるのに他の女性と抱き合うのは罪だと考えて俳優を諦めてしまうような優しい人なのに、そんな夢を見る。というか、彼は優しい人であるから、自分が「そんな夢を見てしまった」という事実にとてもとても強いダメージを受けるだろう。自分の無意識(欲望・欲動)こそが自分を最も深く傷つける。

「自分はなんという夢を見てしまったのか」「自分は心の底でそんなことを望んでいるというのか」「あなたと別れたからバチが当たったなどど彼女に言わせたいのか自分は…」その強いショックと動揺、パク・ミソに対する申し訳なさ、このことについての罪の意識と自己嫌悪、その耐え難さといたたまれなさ、そのような感情のうねりの中でなんとか自分を保つために、そのような感情となんとか釣り合いを取るために、シン・ソクホは真冬の冷たい海に入っていく(それを傍らで見つめ、ただ黙って彼を抱擁する友人がいる…)。

淡々としているようにみえて、とても苛烈な映画だと思った。

(シン・ソクホは、「1」では父に呼ばれ、「3」では母に呼ばれ、「2」では自ら進んで会いにいく。そして全てのエピソードが抱擁で締め括られる。演技で抱擁することを拒否する男の映画を、抱擁という行為で締める。そのような意味で、ホン・サンスはシナリオを「外枠」の形から決めていく、ロメールのようなタイプなのだろう。)