2023/07/16

⚫︎『さすらいのボンボンキャンディ』(サトウトシキ)をU-NEXで。懐かしい感じ。懐かしいとは、ちょっと古いかなあということでもあり、最近、こういう感じはあまりみないということでもある。

主人公を好きになるとか共感するとかでもなく、主人公の成長なり解放なり(あるいは破滅なり)があるのでもなく、社会的な意義(ジェンダー意識の更新とか啓蒙とか)があるわけでもなく、ただ、この人は、このようにあるから、このようにするのだ、ということの説得力だけで勝負しているような映画は、最近では受け入れられるのが難しいのかもしれないが、そういうことをあえてやっていて、その意味で「心意気」のようなものを感じた。そしいう意味での「懐かしさ」でもある。

その人が、そのようにあるということは、善悪や社会的意義よりも先にあり、まず、それそのものとして肯定されるべきものだ。正しいからとか、好感が持てるからとか、共感できるからとか、そういうことと関係なく、まず最優先に「そうある」ことが肯定されるべきで、他者や社会との利害調整やフェアネスは、その後から来るものであるはず(もちろん、その後から来るものから誰も逃れられないのだが)。

だからとりあえず。目の前の人を、彼女が何を考え、何を言い、どんな行動を取ろうとも、「そういうものだ」として全肯定して受け入れること。実際にそんな人が身近にいたら迷惑だとしても、そんな人と個人的には絶対に付き合いたくないとしても、映画の登場人物は観客に迷惑をかけたりはしないのだし、映画が終わればその人との関係は途切れるのだから、とにかくまずは受け入れる。映画(フィクション)だからそれができる。

その言動の全てをとりあえず受け入れるという姿勢で、映画が描くその言動の連なりを浴び、そこから浮かび上がってくるものに対して、「ああ、この人は確かに、このようにしてあるしかないなにものかだ」と納得できるのか、できないのか、ということが、作品の評価として問われる。これはそういう映画なのだと思った。

(他人の人格や人生を「正しさ」で測ることはできない、ただ、そこに厚みを感じるか感じないかの違いがあるだけだ。)

⚫︎いきなり、昼間から道端に座り込んで紙コップで焼酎を飲む女、そして、昼間の球場で野球を見ながらカツオをアテに焼酎を飲む女として、主人公は現れる。そこへ胡散臭そうな中年男が声をかける。鬱陶しいので、普通なら軽く受け流すか、はっきりと拒否するかするのだろうと思うが、しかし意外にも女はそれを受け入れる。へー、と思う。出会い頭の胡散臭いおっさんをするっと受け入れることが、この女の現在のありようの表現の一つとなる。この人はそういう人なのだ。この二人は、出会ったその日にもう、互いを下の名前で呼び捨てで呼び合う。ああ、そういう人たちなのね、と思う。そのようにして、表現は一つ一つ積み重ねられ、一人の女性像が形作られていく。

二人は関係を持つ。女は、男が既婚者で娘もいると知っているが、男は、昼間から球場で焼酎を飲んでいるような女がまさか既婚者とは思わず、その事実を知ってかなり引く。女は、男の娘のTwitterアカウントを発見して男に見せようとする。当然だが、男はさらに引く。男は、最初の幸福な出会いの印象やその風貌とは違って、意外にも普通にちゃんとした(社会に根を持つ、ふわふわしていない)人だったのだ。女性のふわふわした危うさと、それとは釣り合いの取れない男性の凡庸さの食い違いから、男性は女性から距離を取る。しかし女性は男性に執着する。

(女は男に好きに「中出し」させ、妊娠すると男に黙って堕胎する。それはあまりに男にとって都合の良い女性像ではないかという意見もあるだろうし、そしてぼくも「中出し」はないんじゃないのかと一瞬思いかけるが、彼女が「そのように行動する(意思のある)人である」ことと、それが結果として「男に好都合である」こととは、とりあえず一旦は別のこと考えてもいいだろう、と、思い直す。むしろ、当然警戒すべき妻子持ちの中年男が無邪気に「中出し」することのほうが疑問だが、でもまあ、そういう男なのだろう。)

男と連絡の取れなくなった女は、男の同僚と関係を持ち、さらに、男の空白を埋めるかのように売春するようになる。何人もの客と関係した後、自慰をしながらふと「誰でも感じるのかよ」と自虐的に言う。女はどうやら「体の相性がいい」から男に執着していると思っているようだが、そういうことでもないらしいと気づくのだ。もっと、心にひっかかる何かがあるらしい、と。そして、男の行きつけらしい居酒屋から男に電話することで(着信拒否を逃れ)、男と再会する。

二人はバイクで男の実家を目指す。男は、もう誰も住んでいない実家のメンテナンスのために時々帰っているらしい。男はそこで、もう一度運転手を目指すことにしたと言う。運転手になれなかった時点で俺は終わっていると言っていた男に、再び目標ができることで、より「ふわふわ」ではなくなり、女との乖離が決定的になる。ふわふわと宙に舞うティシュペーパーを男は「ゴミ」だと言う。帰り際の蕎麦屋で、「結婚してこっち(地元)で一緒に住まないか」と心にもないことを男が言ったことがきっかけだったのか、それとも、二人の関係のポジティブな側面を象徴するような「バイク」を手放そうとしていることを知ったのがきっかけだったのか、女はこの蕎麦屋で(良いものだった)二人の関係の終わりを自覚したのだろう。女は、男のバイクのマフラーに手を伸ばし、掌で触れて意図的に火傷をする。この行為は、男に対するデモンストレーションというよりも、終わってしまったと自覚した(バイクから始まったとも言える)二人の関係の痕跡を自分の身体に残そうとしたものではないか。

女は再び、昼間から一人で道端に座って酒を飲むようになり(右手は包帯がグルグル巻きになっている)、花壇の段差に座ってそのまま眠り込んでしまいさえする。この無防備さに、男と出会う前の映画の冒頭の感覚が戻ってくる。ここで嘘のように唐突に、長く海外出張で家を空けていた夫が、外で眠り込んでいた女の傍にやってくるのだ。あまりの不自然さに、これは夢の場面ではないかとしばらくは疑ったのだが、どうも実際に帰ってきたようだ。この、外で構わず眠ってしまう女の投げやりな自由さの感じから、あまりに唐突過ぎて不自然な夫の出現という流れが、この映画で最も印象的なところだった。この場面を観て、必ずしも全ての部分が好きだとは言えないこの映画を、信用してもいいのではないかという気持ちになった。

女は、帰国した夫と連れ立って、母の遺骨が置かれた叔父の家へ行き、夫は女の母の遺骨に手をあわせる。その晩、夫婦は叔父の家に泊まる。夜中に女が一人起き出して、母の遺骨の前で焼酎を茶飲みに注ごうとするが、慣れない左手でするため盛大に溢してしまう。畳にまで溢れた焼酎をしばらく眺めていた女は、ふと、自慰を始めようとする。しかし右手を火傷しているのでうまくいかない。両手を見つめ「私には何もできることがありません、それでもなんとか頑張ってきました」と言って、火傷した右掌を愛おしむように顔に近づける。そして再度、焼酎の瓶に手をやり、茶飲みに注いで(左手で)飲む。いいラストシーンだと思った。

一人の女性が「このようにしてある」ことを示す映画に、明快な始まりも終わりもなく、とりあえず男と出会うところから始まり、男と別れて一人になり、夫が帰国したところで終わる。

⚫︎男と出会ったこと、あるいは男との最初の関係は、女にとって疑いなく「良いもの」であったはずだ。そのことが、女を触発し、活性化したが、同時に、女に男に対する執着を生じさせた。しかし「出会いの良さ」は、男への執着によって持続可能になるものではなかった(男との関係から持続可能な「良さ」を見出せないまま行き違った)。とはいえ、神でもない身にそんなことが事前にわかるはずもなく、触発された女は、ともかくも手探りで冒険を始め、さらなる冒険を手探りなまま推し進めるしかなかっただろう。おそらくこの映画は女の冒険の軌跡であり、冒険の季節がひとまず終わり、デフォルトモードに戻ったところで映画は終わる。冒険の成果は冒険の過程そのものであり、冒険に正しいも間違っているもない。