2021-12-20

アマゾンプライムロメールの『満月の夜』を観た。おそらく十数年ぶりくらいに観るのだが、冒頭の、早朝の郊外の駅前からカメラがゆっくりパンして団地の入り口を映し、そこからと仰角となるカットを観て、「これこれ、この感じ」と、この映画の空気感を一挙に思い出した。

この映画はロメールの作品としては特にすごいということもないとぼくは思うのだが、パスカル・オジェが映っていることと、レナード・ベルタによる撮影が決め決めですばらしいことで、貴重な作品といえるものになっていると思う(ロメールの映画として重要というより、ベルタが撮影した映画として重要という感じ)。音声がまったくなかったとしても(あるい字幕がなくてフランス語がまったくわからなかったとしても)、色彩と空間の展開、人物の動きと光の推移を観ているだけでも十分におもしろく観られる。

一人の女と二つの部屋。一方は恋人と同棲する郊外の部屋で、もう一方は一人で過ごすためのバリの部屋。一方にいる時、いつも他方が恋しくなるという矛盾。

一人の女(A)に二人の男という図式。一人は野性的で非社交的な恋人(B)。もう一人は線が細く社交的な友人で妻と子がある(C)。女は彼(C)を友人としか思っていないが、男(C)は女(A)に気がある。また、一人の男(B)に二人の女という図式もある。一人は同棲している恋人(A)。もう一人は恋人(A)の友人で、男(B)に気があるらしい女(D)。女(D)は男(B)の友人の元カノ。女(A)には男(B)と男(C)がいて、男(B)には女(A)と女(D)がいるという対称的な構図。

そして、女(A)も男(B)も、どちらも恋人以外の人物と関係をもつが、その相手は男(C)でも女(D)でもなく、第三の男(E)あるいは第三の女(F)であった(この展開の意外性も対称的)。ただ、女(A)は男(E)と関係することで男(B)への愛を再確認するのだが、男(B)は女(F)の方を愛するようになり、女(A)に別れを告げる(ここは対照的と言うべきか)。

この映画を支えるのは以上のようなきわめて単純な構図(関係-図式)であり、そこに、男(C)が、女(F)を目撃したのに女(D)と取り違えるというトリックが仕掛けられることで、一種の謎が生まれて持続を支える(男(C)は狂言回し的な役割でもある)。この映画はたったこれだけの骨組みで出来ているのだが、そこに具対物(の描写)が代入されることで、こんなにも豊かな映画となる驚き。

とはいえ、この関係-構図はいくらなんでも単純すぎて、構図それ自体(の予定調和な単調さ)が具体的な描写を越えてミエミエに前面に出てしまうところがイマイチだと感じる。あくまで具体的な描写のための骨組みだとはいえ、この作品にかんしては、話の組み立てがオートマチック過ぎるように思えてしまう。

(とにかく撮影がすばらしいので好きな映画ではあるのだが。)