2023/07/11

⚫︎『同志アナスタシア』(監修・高橋洋、第一部監督・篠原美望、第二部監督・高橋洋)。アナスタシア・ニコラエヴナは、最後のロシア皇帝ニコライ二世の娘で、十月革命の時にボルシェヴィキによって一家全員が殺害された。しかし、なぜかアナスタシアだけは生き延びたという都市伝説のようなものが出回り、自分こそアナスタシアだと主張する人も複数現れた(しかし一家全員分の遺骨が発見されている)。そしてのちに、1956年にユル・ブリンナーイングリット・バーグマンによる映画『追想』、1997年にディズニーによるアニメ『アナスタシア』という形で、「アナスタシアは実は生きていた」というフィクションが作られる。

最後のロシア皇帝の娘、革命時にボルシェヴィキによって殺される、しかし実は生きていたという伝説、そしてその伝説を元にメジャーな映画が作られる。実在した人物でありながら、そのありようが伝説やフィクションの人物と見分けがつかないような存在。そのような人物を題材として、演じる/演じられる、フィクション/現実、偽物/本物、そして革命側/反革命側の間の境界が揺らぐようなフィクションを作る。いかにも高橋洋的だと思う。

⚫︎ソ連の鎌と槌のマークが投射された扉が開くと、銃を突きつけられた女性が現れる。彼女は、自分はモスフィルムの大スターで、アカデミー外国語映画賞を狙える芸術映画にしか出ない、今どきプロパガンダ映画になんて…、と言う。銃を持つ者から「登れ」と指示され、女は梯子を登っていく。登った先は光が点滅する場所だ。この「光の点滅」は「この場(この現実)」と「その外」とが触れ合っている局面を表現していると考えられる。ここで女は「あなたの役名はオルガ」だと告げられる。「コムソモールの工作員として反革命軍に捉えられたアナスタシアを救出するために敵地に潜入する」オルガという役を、あなたが演じるのだ、と。この後この映画では、俳優オルガが、アナスタシア役を演じている(演じさせられている)かのようにも見えてしまうのだが、そうではなく「オルガ」もまた、最初に出てきた女(俳優)に与えられた「役」であることが示されている。

つまり、画面に映っている「この女」は、太田路であり、モスフィルムのスター(俳優)であり、オルガであり、アナスタシアでもある。言い換えれば、「アナスタシアを演じる俳優(フィクション内フィクション)」と「オルガを演じる俳優(フィクション内フィクション)」と「俳優(フィクション内現実)」という位相の異なる三つの役を演じる「太田路(現実の反映)」を、我々は見ていることになる。

そして一つ疑問なのは、「コムソモールの工作員として反革命軍に捉えられたアナスタシアを救出する」という指令だ。コムソモールはアナスタシアを殺害する側で、反革命軍こそが「アナスタシアを救出する」側であるはずなのだ。ここで、(虚実が反転するかのように)敵味方が反転してしまっている。

こんな映画下らないと女=俳優は拒否しようとするが、奈落のような場所に突き落とされ、落下のカットはそのまま、へッドセットで電気刺激を受けている女のカットにつながる。そこは既に反革命軍のアジトだ。女=俳優=オルガは、瀕死のアナスタシアの記憶を移植されようとしている(フィクション内フィクションの出来事)。ここで、女=俳優の位置(フィクション内現実)からのナレーションが被る。なんて酷いセリフ、いつまでもカットがかからない…、と。そして女は、オルガとしてではなく俳優として語り始める。「休憩時間とかないわけ?」。周囲の者たちはきょとんとする。「オルガ、しっかりしろ、これは現実だ」とコムソモールの同僚が声をかける。この場面だけを見れば、女=オルガが電気ショックで意識が混乱しているとも考えられる(虚実決定不可能)。じゃああれは何なの、と、女はカメラの方を指差す。「あっちは誰も立ってはいけない、見てはいけない、禁断の方角じゃないか」と一同は狼狽える。そちらの方向には映画の観客席が投射されたスクリーンがあり、女は「あれを見た途端、私たちの世界は嘘になる」と言う。同僚=男は、その壁(スクリーン)を超えて向こう側へ、そして女もそれに続く(その前に女は、アナスタシアが自分と同じ顔をしていることに気づく)。

映画の登場人物が、自分たちの世界の外(メタ視点)として観客席を発見し、そちらへ逸脱していくというネタは、それ自体ではありふれているが、話はそこでは終わらない。次のカットでは女=アナスタシアが眠っており、目が覚めると反革命軍の男がいて、君の家族は全員ボルシェヴィキに銃殺されたと言う。そして男は、君の高貴な血筋が我々を一つにしてくれる、と言う。ここで、女=俳優=オルガが中心だった視点が、女=アナスタシア中心の視点へ移動している。そして、オルガとアナスタシアは「同じ顔」なので、女=俳優=アナスタシア、となるはずである。オルガとアナスタシアは(フィクション内フィクションでは)別人であるが、現実のレベルでは同じ太田路によって演じられている。このことにより、フィクション内現実においても、二人が同じ「モスフィルムのスター(俳優)」によって演じられているように感じられるのだ。反革命軍の男はアナスタシアに、モスクワへ行ってボルシェヴィキを血祭りにあげるんだ、と言う。そしてそこに女=俳優の位置(フィクション内現実)から「酷いセリフ」というナレーションが被される。ここで、別人格であるはずのオルガとアナスタシアの「内心」が、二つの役を共に演じる俳優によって(フィクション内現実とフィクション内フィクションの混同によって)繋がってしまったかのように感じられる。ここで第一部は終わる。

⚫︎第二部はモスクワで、コムソモールの同僚の男(ヴィクトリア・シュレーヴィッチ)がある酒場を訪れるところから始まる。男は給仕の女に「この店にアナスタシアがいると聞いて来た」と言う。ふと気づいたように男は、女に向かって「オルガ…」と声をかける。すると女は「自分の恋人の顔を忘れたの?」と返す。ついで、「あなたと私は宮廷の舞踏会で出会い、恋に落ちた…」と、オルガではなく明らかにアナスタシアの視点から語り出す。すると、オルガとコムソモールの同僚であったはずの男が、いつの間にか、かつてアナスタシアと恋愛関係にあった下級貴族の男になっていて、しかしコムソモールの一員であるという属性はそのまま生かされて、貴族の身分を隠してコムソモールに潜り込んだことになっている。アナスタシアは、反革命軍をまとめる高貴な血を持つ女から、場末の酒場女に身を奴していることが分かる。そして、元恋仲だった二人が「今度こそ二人で逃げよう」という駆け落ちめいた話になるのだ。

酒場の女が、同僚だった男が声をかけることでオルガとなり、そのオルガが(同じ人物によって演じられていることで)アナスタシアとして語り始める。その語りの反映で、「オルガの同僚」は「アナスタシアの元恋人」へと「中身」が変化し、しかしその役割(アナスタシアを探しに来たコムソムールの一員)は変わらない。この何ということもないように見える一場面(ただ、ここの長回しはけっこうすごい)で、なんとすごいことが起きているのか。何という飛躍。

(もちろん、この場面は第一部の最後の場面があることによって成り立つ。)

この後、オルガの同僚でありアナスタシアの元恋人である男は、コムソムールの仲間から裏切られ、アナスタシアはここで処刑すると告げられる。ここでいかにも高橋洋らしい飛躍があり、アナスタシアがロシア語で「我らの気がかりは一つだけ/我らが気がかりなのは我らの国が生き続けてくれること/他には何も心配しない」という歌を歌いながら出てくると、コムソモールの戦士たちは「俺たちの歌を歌っている、同志アナスタシア ! 」と言って態度を一変させ、一緒に歌い出すのだ。そしてその隙に、第一部に出ていた反革命軍の男が、コムソモールの男たちを機関銃で撃ち殺す。反革命軍の男は、一人生き残った同僚=元恋人の男を洗脳して、レーニンを暗殺させるコマとして使おうとする。

そして、第一部の反復のような、へッドセットと電気ショックの場面に戻る。だがここで電気ショックを受けているのは女=オルガではなく、オルガの同僚=アナスタシアの元恋人である男だ。第一部では瀕死状態であった女=アナスタシアは健常であり、この場面には女=オルガがいない。電気ショックによる「光の点滅」は、この場面が「この現実」とその「外」とが接している場であることを表している。光の点滅をしばらく浴びていた女=アナスタシアであるはずの人物は、何かに覚醒したかのように立ち上がり「どうしてこの映画、カットがかからないの」と(フィクション内現実の位置から)女=俳優として語り出す。それによりフィクション内フィクションの機能が一瞬停止する。反革命軍の男は「しっかりしろ、我々はスクリーンを抜け出して現実を手に入れたんだ」と言う。しかし、第一部でスクリーンの外に出たのは、女=オルガであって、女=アナスタシアではなかったはず(女=アナスタシアは、映画の中で死んでいた)。つまり、第一部の終盤で眠りから目覚めたのは、アナスタシアではなくスクリーンの外に出たオルガであり、第二部のアナスタシアもずっとオルガによって演じられていたことになるのだろうか(つまり、アナスタシアを演じるオルガを演じる俳優、というもう一つの層があったことになる)。

女はゆっくりとカメラを方を向く。それに対して同僚=元恋人の男は「オルガ、よせ」と言う。女はようやくオルガであることを思い出しカツラをとる。そして女=オルガの視線の先にはスクリーンがあり、(今度は観客席ではなく)海辺の風景が見えている。「本物の人生なら、あれは何」と女は言う。「あれは第四の壁なんかじゃない、俺たちが気づいちゃいけないものだ」と男。

(これは、映画にとっての第四の壁に相当する、この世界にとっての外部というアナロジーであろう。)

そして女=オルガは、自分たちが抜け出してきた「出口」にあたる「あのスクリーン」のある場所に戻っていく。そしてそのスクリーンに投射されている映像では、女=アナスタシアが今もなお死に続けている。反革命軍の男は、スクリーンの中の女を「あれが本物のアナスタシアだ」と言う。つまり、フィクションの最も深い層に閉じ込められたアナスタシアこそが「本物」なのだ、と主張する。反革命軍の男は映写技師にフィルムの逆回転を指示し、逆回転されるフィルムによってスクリーンの中のアナスタシアは立ち上がり、生き返る。反革命軍の男は、スクリーンの中のアナスタシアに向かって、「こちら側」へ出てくるように呼びかける。逆回転によって生き返った死者アナスタシアがスクリーンの外に出てくる。そして女=甦った死者は言う。こいつら(反革命軍)の言うことは嘘だ、私は家族と一緒に殺された(史実)、でも映画のおかげて甦った、と。女=オルガは、女=甦ったアナスタシアに「化け物」と言って発砲するが、女=アナスタシアはびくともしない。「映画から抜け出た俺たちは不死身だ」と反革命軍の男は言う(「この世界」とは別の原理で生きている)。同僚=元恋人の男は、銃口をプロジェクターに向ける。プロジェクターの光こそが「映画世界」の根源なのだ。反革命軍の男は「やめろ、お前も死ぬぞ」と言う。撃つ。女=アナスタシアが悲鳴をあげ、アナスタシア、同僚=元恋人、反革命軍の男が倒れるが、女=オルガは何ともない。

同僚=元恋人の男は、最後の気力をふり絞って女=アナスタシアを抱え上げ、第四の壁の向こう側の「海辺」へ向かっていく。女=オルガは「私はどうして死なないの?」と問い、同僚=元恋人の男は「君は女優だ、女優として生き続ける」と言う。つまり、フィクションの次元で死んでも、現実(フィクション内現実)の次元で「俳優」として存在し続ける、と。二人の後を追おうとする女=俳優だが、透明な壁に阻まれてそれ以上先へは踏み込めない。

⚫︎ここで最初の疑問、なぜ政治的立場が逆転しているかのような「コムソモールの工作員として反革命軍に捉えられたアナスタシアを救出する」という指令が出ていたのか。反革命軍は(自分たちの政治的利用の都合のために)、既に死者であるアナスタシアをフィクションの内部に閉じ込めることで「死者を死なせる」ことを阻害していた。だから、アナスタシアをフィクションの奥の奥から救い出して、死者に改めて死の位置を与えるという役割が、女=俳優=オルガに課せられたのだ、と。

映画『同志アナスタシア』監修:高橋洋 第一部監督:篠原美望 第二部監督:高橋洋 - YouTube