2023/07/12

⚫︎『同志アナスタシア』の第一部の途中までは、我々は「オルガを演じるモスフィルムのスター」を演じる太田路を見ているが、第一部の最後の場面からは、「《アナスタシアを演じるオルガ》を演じるモスフィルムのスター」を演じる太田路を見ることになる。

この作品にはフィクションの三つの層があると言えるとだろう。フィクション内フィクションの層、フィクション内現実の層、そして現実の層。ただ、現実といっても、現実の層にある太田路もまた役を演じているので、これは事実上、演劇における上演の記録映像と同じ位置にあたると言える。このことを考慮して言い直すと、三つの層は、(1)映画内フィクションの層、(2)映画内現実の層、(3)演劇の層と名付けられるだろう。

映画内フィクションの層では、オルガがアナスタシアを演じており、映画内現実の層では、「アナスタシアを演じるオルガ」をモスフィルムのスターが演じており、演劇の層では、「《アナスタシアを演じるオルガ》を演じるモスフィルムのスター」を太田路が演じている。つまり、三つの層のすべてで「演じられる(フィクション)/演じる(現実)」という二つの層の分裂がある。

とりあえず、(1)の層が最も虚構度が高く、(3)の層が最も虚構度が低いと言えるが、しかし、どの層も等しく「演じられる/演じる」という二層をもち、虚構の層を持っている、つまり「同じ構造」になっていることから、虚構度が階層的に積み上がるというよりも、その都度、前面に出ている層がその都度での「基層」となり、他の二つの層を「潜在的に含んでいる」という感覚になる。

すべての層が「演じられる/演じる」という二層を持つ同型であることで、階層構造がアナロジー的に並立構造化する。すべての層が、他の二層を内に含むというのは、マトリョーシカ的な入れ子構造ではなく、袋詰め的入れ子構造になっているということだ。マトリョーシカ的構造では、大きなマトリョーシカの中に小さなマトリョーシカが含まれる(A⊃B⊃C)が、袋詰め的構造では、袋Aの中に袋Bと袋Cが含まれる場合(A⊃B⊃C)もあれば、袋Bの中に袋Aと袋Cが含まれる場合(B⊃A⊃C)もあり、また、袋Cの中に袋Aと袋Bとが含まれる場合(C⊃A⊃B)もあり、そのすべてが同等となる。

袋詰め的構造により、メタフィクションの「メタ」構造が崩される。すべての層において「演じられる(フィクション)」と「演じる(現実)」との関係が、等しくシリアスであり、等しく胡散臭いものとなる。

映画『同志アナスタシア』監修:高橋洋 第一部監督:篠原美望 第二部監督:高橋洋 - YouTube