2023/07/06

⚫︎ようやくU-NEXTで『ザ・ミソジニー』(高橋洋)が観られた。とても面白かったのだが、挑発的なタイトルに反して、高橋洋の作品としてはミソジニー要素はかなり薄めというか、ホラーというよりも「演じる」ということのヤバさの方に関心の重心が移ってきている感じがした。これを観て、改めてYouTubeで『同志アナスタシア』を観直して、この二つの作品の関連の深さを思うと共に、『同志アナスタシア』という作品の重要さも改めて感じた。『ザ・ミソジニー』で、中原翔子と河野和美の白熱した演技合戦がある閾値を超えると「笑い」に転化されてしまう感じと、『同志アナスタシア』のいわゆる「素人演技」との間には「演じる」ことのヤバさへの注目において通底するものがあり、その二つを行き来する高橋洋からは、これもまた様々な意味でとても素人くさいクロソウスキーの映画、『ロベルトは今夜』に通じるものを感じた。

映画美学校関連の自主制作枠で、大胆な空間解釈とプロジェクションマッピングの多用によって、素人くさい活人画めいた作りで「ジャンヌダルク」や「アナスタシア」を語る高橋洋から、クロソウスキーを連想しないことは難しい。とはいえ、空間解釈や語りの構造において、高橋洋の方がより大胆で複雑になっている。

(追記。演じることと権力闘争の主題という意味では、『旧支配者のキャロル』との関連も深いと思った。)

たとえば『ザ・ミソジニー』の降霊の場面で、中原翔子が演じる劇作家ナオミが、アメリカから来た魔女と言われる霊媒師を演じ、その霊媒師のところに「母の霊」が降りてくる場面では、一つの身体に四つの「魂」が重ねられていて、今、このセリフを喋っているのは一体「誰」なの? 、という感じになるとき、そこでは一体何が起こっているのか。そしてそのセリフに対しているのが、河野和美が演じる俳優ミズキが演じている「娘」なのだ。このように、「演じる」ことによって生じる「魂」の多層化(魂のレイヤー)と「魂」の交換可能性が、「今、ここ」という現実の基底面を多層化していく。

(この複雑さから、モンテ・ヘルマンの『果てなき路』なども想起された。)

まず、出どころ不明の都市伝説めいた「母の消滅(失踪)」に関するエピソードがあり、このエピソードの語り手(主体・オリジナル・娘)の位置をめぐる抗争があり、次に、そのエピソードを元にした戯曲・演劇の語り手(作者・主体)の位置をめぐる抗争がある。さらに、「演じる」ことにょって生じる、「今・ここ」を成立させている基底面(虚構内の現実レベルなのか、戯曲を演じているのか、過去の回想なのか、夢なのか、など)の抗争がある。加えて、一人の男をめぐる二人の女の抗争もある。

元々出どころ不明で浮遊するエピソードにおける「娘」の位置が、それを改めて語り直そうとする劇作家(中原)の権力により、一人の特定の女性(河野)の身体に結び付けられる。作者の権力によって「娘」の位置を押し付けられた河野は、他所からやってきたそのエピソードを「自分の過去」だと混同することによって、自分の物語として生きることで主体(語り手)の位置を取り戻そうとする。しかしそこで、作者も俳優(演じることで「本人」として生きる人)も、どちらも自分のものではない(道でたまたま拾ったポラロイド写真のような)「母と娘のエピソード」に操られているに過ぎない。ボディースナッチャーのような、外から来たものに乗っ取られている。

だがここに、エピソードによる支配から比較的自由な第三の人物(横井翔二郎)がいる。彼は、オリジナル(主体)をめぐる抗争には参加しない。彼は、最初は河野のマネージャー・お目付け役として河野の側の人物であるが、のちに、中原の(生まれなかった)子供であったり、秘密組織の同僚であったりと、中原の側の人物となる。そして最後には、中原を裏切り者として切り捨てる。彼は中原の子であるが、中原と河野が「母娘関係」に執着するのに対し、母への関心は希薄だ(しかし、彼は彼で「自分のオリジナル=蛇のホルマリン漬け」には執着しているようだ。)。

高橋洋の作品ではよくあることだが、この作品でも物語の根拠がどんどんズレていく。母と娘の循環的同一化(母を殺したのは娘であり、娘を殺したのは母であり、つまり母は娘である)という閉ざされた母娘関係が問題だったはずなのに、偽史的で陰謀論的な秘密組織による儀式の話にいつの間にかなっている。母の不在の象徴だった「開かずの間」はあっさりと開かれ、その先(裏)から「組織の人」としての母が屋敷に入ってくる。ここではもはや、エピソードの主体・オリジナルの位置をめぐる作者と俳優の抗争は底が抜けて無意味化し、状況を操っているのは謎の組織(の指導者)だということになる。全ては「陰謀」であり、そもそも誰の元にも主体性などなかった。第三の人物(横井)は、母娘関係が主題だった時には河野の側に、陰謀論が主題となってからは中原の側にいるというように、展開によって位置を変える。その横井が中原を「裏切り者」だと断定することで、物語は第三のフェーズに入る(つまり「展開」を支配しているのは横井なのか? )。儀式の執行者(中原)と生贄(河野)という関係は崩れ、二人が共闘して「組織」と戦う展開となる。つまり二人は、組織と戦うことによって再び「主体性」を取り戻そうとする抗争に入る。ここでは一旦「母の失踪」にまつわるエピソードは無意味化する。

二人の女は、組織との戦い、そして横井との戦いに勝利して、それは、二人が協働して作った戯曲の完成に繋がる。つまり、二人による主体的な協働が成立したかのように、一瞬だけ見える。しかし、第三の人物(横井ではない、二人の間を行き来した男性)の影がチラついた途端に、再び世界の外から亀裂のようにやってくる「母の消滅(失踪)」のエピソード(出来事)が、二人の元に降りてくる。

だがもはや、このエピソード(出来事)は二人を支配しない。それは二人の傍らにあって、繰り返し何度も回帰はするだろうが、しかし「こだま」のように無害化されている。中原は二階から、河野は木の影から、その出来事を冷静に眺めることができる。つまり、なんと地獄エンドではないのだった。

⚫︎序盤で河野が口にする、「あれ、放射能?」とは何なのだろうか。