2023/02/23

●『脱獄計画(仮)』の背後には、ビオイ=カサーレスだけでなく、ベケットクロソウスキーへの参照があり、それらの名は戯曲に書き込まれてもいるし、上演からも感じ取ることができる。しかしそれだけでなく(昨日の日記にもちらっと書いたが)、終盤に、唐突に到来するかのように髙橋洋を感じた。

ここで高橋洋というとき、『血を吸う宇宙』『おろち』『恐怖』『霊的ポルシェヴィキ』など、輪廻と入れ子構造が強く結びついた作品群が想定されているのだが、そしてまた、それらとはやや異なる要素を持つ『ザ・ミソジニー』との関連について。しかし、ぼくはこの映画をまだ観られていない。ここで言う『ザ・ミソジニー』とは、山本浩貴によって描写=分析された『ザ・ミソジニー』のことだ(「死の投影者(projector)による国家と死---〈主観性〉による劇空間ならびに〈信〉の故障をめぐる実験場としてのホラーについて」「ユリイカ」2022年9月号特集「Jホラーの現在」)。この描写=記述がとても見事なものなので、ぼくは半ば、既にこの映画を観た気になってしまっている。

《『ザ・ミソジニー』における最大の法はやはり「女性であること」に基づいて制作され---「女はみんな、地獄に堕ちるって」「うん、女は生まれた時からそう決まっている」---非女性も含めてあらゆる肉体は、その法のもとで(時に複数の)〈役〉を演じ(つつ束ね)る場として機能させられる。(…)しかし『ザ・ミソジニー』では、第一に人らをprojectorとする呪いそのものを時空間にprojectする主体の座を男性ではなく女性に与え---消失する親もそれを見る子も『呪怨 呪いの家』では男性だったが『ザ・ミソジニー』では女性となる(…)。》

《主に三人という限られた役者らの肉体において、制作者を担いうる〈役〉を生起させては画面内を統率する法の質を大きく切り替え、すぐに次の製作者=〈役〉と法を立ち上げていく。これは現実とされるレベルを形成する法がそのなかで上演する虚構の法に由来を奪われ、さらにそのなかで上演される別の虚構によってまた根拠づけられていくプロセスを表現しもするだろう。(…)法らが散逸せず拮抗し合い、その拮抗でもって「女性であること」に基づく特権的な法が、無限遠の幅を持つ地獄めくループではなく具体的かつ閉鎖的な時空間において演じられる〈役〉+法のあいだの限られた円環としていったん構造化が図られること、そして何より「女性であること」に基づく特権的な法の上演がいち劇中劇として閉じられ、そこからの距離をとる〈役〉の発生可能性が垣間見えることである。》

《「特定の法に基づき為される上演行為とそれを実現する幾つかの肉体」を不可欠とする以上、肉体間にあるのは一挙の対等さではなく、劇作家と役者で形作られた権力勾配をめぐる小刻みな交代劇であり、それは特定の法の特権化を防止しつつも、ささやかな集団の運営する区画のなかでのヒエラルキーの固定化の危険性を残してはいくだろう(…)。》

《つまり、国家は(微小化・分散化しつつ)残る。そこで自身の遵守する法とは別の法を前にしたときの恐怖、ないし遡行的に発見される差別は、消えるのではなくむしろ経るべき手続きとして率先して多用され、方々に蔓延するだろう。(…)そこで恐怖は依然として、生きた人間によって閉鎖的空間(からの引き剥がし=死)を表現する限り続くのである。》

《(…)自身の肉体が恐怖を感じたかどうかを価値基準にして作品を作り、論じることは、ともすれば社会由来の差別を自身の肉体においてそのまま上演し、コンテンツの価値、さらには世界の法として流通させ、価値基準そのものを固定化することに繋がりかねない。それでも自身の肉体でもって自己言及的に語らざるを得ない(…)領域は、自身の肉体が特定の国家(ら)に紐づく土地・文化圏で生育した、人という他の生物と異なる傾向を多少なりとも持つ種である限り残る。(…)ホラーというジャンルにおいて表現するとは、こうした私における(さらには国家における)恐怖の発動条件を制作の論理として組み込み検討せざるを得ないことを意味し、それゆえ他のジャンルより遥かに無意識的に得られる私と国家のデバックの可能性(その蓄積へのアクセス可能性)こそが、ホラーで表現すること/ホラーを論じることの、第一の危うさにして価値だと言える。》

●『脱獄計画(仮)』には、不在の「演出家」や、オリジナルである「初演」、いま、ここで演じられていることすべてがあらかじ書き込まれている(ことになってしまう)「戯曲」という、絶対化された「法」が外にあって、それらに支配される場で、3つの異なる位相(役柄)が重なった身体が、そこから逃れようとする(山本浩貴が「自由意志」と呼ぶものにかんする)絶望的な戦いを演じる。その点では、山本浩貴が《(…)法の由来を、それが上演される世界の外へ据え置くのでも、また特定の非人間=霊に紐付けるのでもなく、あくまで肉体の演じる生きた人間の〈役〉自身に担わせている》点を重要視する『ザ・ミソジニー』とは異なっている。つまり、『ザ・ミソジニー』以前の髙橋洋に近いということだろう。

とはいえそれでも、演じられる劇の次元では、インタビュアーとしてやってきたロビンに、主役であるヌヴェールを演じるように指示を与える(強要する)土井は権力的に上位にあるし、また、終盤で、「ドレフュース-土井を演じていた油井文寧」と「ヌヴェール-ロヴィンを演じていたロビン・マナバット」に対して、その「役」の交代を指示する(強要する)「桑沢を演じる黒澤多生」は、権力的に上位にある。このような権力勾配が存在し、その交替も存在する(序盤で土井は「桑沢などインテリアに過ぎない」というようなことを言うが、後半に桑沢は場を仕切るようにすらなる)。だが、この権力勾配は、共に俳優というフラットな立場の間で生じている可変的で小さな勾配で、戯曲(≒作者)や演出家といった決定的な表現の主体(権力)は外にある。むしろ彼らは、その時々に主導権を交代させながら、見えない「法」に対して協働して戦っていると言える。権力の交代は、「法」というより「アプローチの仕方」の交代だろう。だからここでの《権力勾配をめぐる小刻みな交代劇》は、「法」そのものを書き換える、劇作家と役者との間で起こる下克上のようなダイナミックで大幅なものではなく、『ザ・ミソジニー』におけるそれよりもずっと《小刻み》なものとなる。

そしてこの、「より小刻み」で「振幅の浅い」権力勾配の交替もまた、既に、戯曲、演出家、初演によって操作・決定させれらていると見るのならば、輪廻と運命の強力さ(無限遠の幅を持つ地獄めくループ)を語る高橋洋に近いということになるし、構造上はそうなるしかないようにも思われる(実際に、そのように戯曲に書き込まれている)。つまり、山本浩貴の書く《そこ(法)からの距離をとる〈役〉の発生可能性》が、ことごとく潰されていくということになる。しかしここは、(『ザ・ミソジニー』以前の)髙橋洋と類似しつつも、それとは異なる手触りがあるように感じられる。

それが何なのかを、具体的に示すことはできないのだが、昨日の日記に書いた、自由や新しさのまったくない状態を作り出そうとしているこの上演(いや、「上演」ではなく「戯曲」か…)から、逆説的に自由さや新鮮さの感覚を強く感じる、ということと関係があるように思われる。ここには、戯曲の構造をさらに反転させるような、(戯曲に対する)俳優や上演の優位性が同時に示されているように思われる。戯曲(法)のレベルでは俳優が負ける(というか「消える」)しかないが、上演(実演)のレベルではむしろ俳優こそが勝利する(あらわになる)、というような。俳優をあらわにするためにこそ、俳優を徹底して消す戯曲(法)が必要となるという逆説。もちろん、ここでいう「俳優」とは、社会の中に名前を持って属している俳優の誰々のことではなく、演じることによってはじめて舞台上に出現する何ものかとしての俳優のことだ。

そこに、上映が既に反復である映画と演劇の違いがあるのか(というところに結論を持ってくるのはあまりに安易か…)。