⚫︎『旧支配者のキャロル』(高橋洋)を久々に観た。観ているだけで胃がキリキリ痛むようなエグい権力闘争の話。「人は潰されるのではなく、ただ自分で潰れるだけだ」などと生意気なことを言う若い女(松本若菜)を、前の世代の女(中原翔子)が、じゃあやってやろうじゃねえかとばかりに「潰し」にかかるというえげつないパワハラ映画。権力闘争それ自体は、(現支配者にとっても)殺るか殺られるか、のるかそるかの、事前に結果が見えているわけではないガチな闘いで、若い女(松本)も相当なところまでやり返しており、仮に松本があともう一歩踏みとどまってやり返せれば、それは下剋上(革命)になったかもしれない。
⚫︎いや、そうではない。そのような見立てがそもそも「嘘」であり「罠」であるのだ。
⚫︎『旧支配者のキャロル』の権力闘争のえげつなさを生じさせているのは、松本若菜が監督する劇中映画がフィルムによって撮られているという事実だろう。フィルムはランニングコストが高く、低予算の映画では使えるフィルムの量は限られている。だが、主演する中原翔子の演技はテイクを重ねるごとに明らかに凄みを増し、それがスタッフの士気をも高めている。だから松本若菜はフィルムが足りなくなるのを知りつつも、テイクを重ねるしかない。中原翔子は、自分の演技の強度を徐々に高めることによって松本若菜に圧をかけ、追い詰める。
だからここで権力闘争の争点は、中原翔子の演技が松本若菜にテイクを重ねさせているのか、松本若菜が自らの意思で(自らの「演出意図」によって)テイクを重ねているのか、という自由意志の在り処の問題になるようにみえる。そしてこの「自由意志」は、権力闘争に勝った方に事後的に宿ることになる。中原が松本に「お前の演出は役者のアドリブに頼りすぎだ」と言い、それに対し松本が「役者の演技を引き出したのは自分の演出だ」と応える時、自由意志(行為の主体)は自分の元にこそあるのだという闘争が行われている(ようにみえる)。
とはいえここでは、「自由意志の主体をめぐる争い」そのものが、そもそも「罠」なのだ。明らかに、松本は自分の意思で(足りないフィルムを買うために)売春をしたのではなく、中原やスタッフたちの集団的な「圧」に負けて、売春せざるを得ない状況に追い込まれてそうする。にもかかわらず、あたかもその責任の主体(「決断」の主体)が松本にあるかのように見せかける(あるいは、責任の主体を松本に押し付ける)自己責任の罠が「自由意志の主体をめぐる争い」のその内実なのだ。
実際、監督である松本が「人って潰されるの ! 」という言葉を残して「潰れた」後でも、撮影は支障なく続く。撮影の主体は監督ではなく現場そのものであり、現場の士気を上げる演技をする中原にある。結果的に見れば、監督であったはずの松本は、中原の演技が十分に発揮されるために必要なフィルムの量を調達するために使われた捨て駒に過ぎなかったことになる。「自由意志の主体をめぐる争い」そのものが初めからフェアなものではなく、松本を生贄にする罠だった。「映画」とは、自由意志という甘い罠で監督を誘い込んで生贄にする犠牲の儀式のようなものだ、となる。
⚫︎ここで、中原翔子に、松本若菜を「潰す」ことができるだけの権力を与えているのは、教師と生徒という社会的関係であるよりも、その圧倒的な演技の質であろう。中原の演技の質の高まりが、松本にテイクを重ねざるを得なくさせるのだし、中原の演技によってスタッフの士気が高まり、この映画は良いものになるという期待がスタッフ間で共有されているからこそ、松本はますますテイクを重ねることになる(確かに、テイクを重ねることは当初は松本の意思だったのだが、その意思が中原の演技によって徐々に食い破られていくのだ)。そして、フィルムが足りなくなっても、それを理由に撮影を中断することができなくなる(故に「売春して金を作れ」という中原の指令に従わざるを得なくなる)。中原は単なる理不尽な暴君ではなく、「質」によって裏打ちされた暴君であり、故により逃れがたく厄介なのだ。
だがその「質」そのものはも中原から出てくるものであっても、中原に「属する」ものではない。演技の質の高さとは「聖なるもの」の発現であり、だからこそそれは「悪魔」のように作用する。
⚫︎もし仮に、ここで松本に中原との権力闘争に勝利し得る自由意志の行使があり得るとしたら、「映画」を裏切り、スタッフを裏切ってでも、撮影の中断を決断することだっただろう。あるいは、「フィルムに残っちゃうのはあたしなの(だから中途半端な映画には出たくない)」と言う中原の圧に負けずに、演技の質の高まりを裏切って、使えるフィルムだけを使って「そこそこの出来」の映画をサクッと完成させることだっただろう(これこそが「聖なる悪魔」に抗する、脱聖化の革命だろう)。しかし「自由意志をめぐる抗争」という偽の抗争(聖なる悪魔)に絡め取られてしまう。
⚫︎前提条件として、現在多くの映画はフィルムでは撮られていないし、『旧支配者のキャロル』という作品も、おそらくフィルムでは撮られていない。だからそもそも、この映画が描くような状況は起こりようがない。フィルムで撮らなくなった時代に、あえて「フィルムが足りない」ことから生じる摩擦状況を描くことによって「フィルム的な聖痕」を演じてみせるというアナクロニックなアイロニーがここにはある(撮影を担当する女性はラッシュの前にトイレでもどしながら「ちゃんと映っているか心配で眠れなかった」と言うが、このような「圧」も、撮ったものをすぐに確認できるデジタル撮影ではあり得ないだろう)。この作品は基本として、大映ドラマ的な(という表現が、今、どのくらい通じるかわからないが)まがいもの的なアイロニーとしてあるということは、まず確認する必要があるのではないか。
⚫︎中原翔子と松本若菜の抗争があり、その二人の間に媒介者として津田寛治がいるというこの映画の構図は、中原翔子と河野和美の抗争と、媒介者としての横井翔二郎という形でそのまま『ザ・ミソジニー』に受け継がれている(媒介者は不在の、元/現夫かもしれないが)。とはいえ、『ザ・ミソジニー』では、その闘いが途中で一旦無効化された上で(ある意味、ポストモダン的な「主体の消滅」段階を経た上で)、二人の共闘・協働にまで発展する。「主」の位置の奪い合いから、緊張を孕んだ(対立・差異を内包したままでの)協働へと進む。
(二階から見下ろす河野と地上に立つ中原という位置関係が、最後に逆転し、互いに、相手の位置をも分け持つことになる。)
また、『ザ・ミソジニー』では、「母の消滅」に関する都市伝説的な、出所の怪しい「外」からもたらされたエピソードが、あたかもトラウマみたいに自分の最深部に位置するかのようになってしまうという、外と内とのトポロジー的な反転が生じており、この「内外の反転(内は外であり、外は内である)」が、フィクションのさまざまな層(フィクション内現実、フィクション内フィクション、回想、陰謀論、夢など)に、それぞれが落ち着くべき安定した位置を失調させる。つまり、フィクション内の主従関係を解体して、どの層もその都度「主」の位置を取り得るような構造になる。このような時空構造が、二人の人物の権力抗争を、二項対立的なガチなぶつかり合いからズレさせる。
『ザ・ミソジニー』が驚くべきものなのは、そのような時空構造が、作家としての高橋洋のオブセッション(凄惨な殺し合いが永遠に反復される)さえも解体しているように感じられるところだ。