●とてもよい天気の日曜日。夏が終わって秋が来るという気がまったくしない。季節の感覚というのが狂ってしまった。今年は、五月もなかったし、夏もなかった。ひと夏を通過してきたという感触が身体のなかにほとんど残っていない。だから、夏が終わる寂しさも感じられない。五月も夏も不発のまま過ぎ去った。今日のような晴れて汗ばむ暑いほどの日に外を歩いていると、ようやく長い梅雨が明けて、これから本格的に暑くなるぞ、と、ちょっと気を許すとそんな風に自分が感じてしまっていることに気づく。今がいつだか分からない。とはいえ、長い散歩から戻って、少し眠って、あたりが暗くなってから目が覚めると、昼間の熱気はなかったことみたいにきれいに去っていて、外からは虫の声が流れ込んでいて、ああ、やっぱり幻だったんだ、夏は来ないんだ、と、半ば寝ぼけたままの頭で思い知るのだった。
●(十日からのつづき)『おろち』(監督・鶴田法男、脚本・高橋洋)には、二つの一人二役がある。一つは、木村佳乃による門前葵と門前一草の二役で、母と娘である。葵と一草とは実の親子ではなく、この事実が物語の展開上で重要な要素となるのだが、イメージの継承-反復という意味では、とりあえず母娘という主題の範疇にある。もう一つが、谷村美月による、おろちと佳子との二役であり、この二役の関係の複雑さこそが、この映画を原作を超えたものにしていると思われる。
おろちは本来、物語の時間の外に存在し、ただ人々の運命を見守るだけの存在である。彼女の物語への介入は最小限のものであり、運命の流れを根本的に変えるものではない。彼女は永遠の生のなかにあり、だからこそ現実の外にいる。しかしそのおろちが、酒に酔って運転する葵の車が事故を起こす場面で、葵を助けようとして負傷する。ここで、おろちの流した血が、葵の運命の進行を一時的に停止させる力をもつことはとても興味深いのだが、それはともかく、この決定的とも言える現実への介入が、おろちを門前家から遠ざけることになる。現実の外にいるはずの者が、これ以上現実に介入することは許されないからだ。おろちは、門前家の行く末を気にかけながらも、意識を失い、この世界から一時的に退却する。
しかし、この世界から退却したおろちの意識は、すぐさま別の世界で別人として目覚めることになる。おろちとして、現実の外に超然と存在していた少女は、こちらの世界では無力で不幸な少女、佳子である。身寄りのないところを、貧しい「流し」の夫婦に拾われ、自ら望まない仕事を強いられている。母代わりの女は佳子に暴力的に厳しく当たり、父代わりの男はそれをただ見ているだけだ。まるで、これ以前の、美と呪いのうずまく門前家のきらびやかでおぞましい世界や、それを見守るおろちという少女は、この貧しい少女の不幸が見させた夢であったとでもいうような、唐突な世界の転換である。
しかしこの世界は、前の世界と断絶しているのではなく地続きであるようなのだ。佳子は、「流し」の仕事の先の酒場のテレビで門前葵(=一草)のイメージを見る。だがここまでてはまだ、佳子の幻想-妄想の素材として、きらびやかな世界にいる女優が使われたという風に考えるのが自然だろう。しかし、佳子が家政婦として門前家へと赴くことになると、この二つの世界がねじれをもってつながることになる。おろちが意識を失った時から既に二十年の時間が流れ、門前家にはかつての葵とそっくりの一草がいるのだった。ここで佳子は、自らがつくりだした幻想-妄想の世界に、自分がその一員となって入り込んでゆくかのようなのだ。ここでは、前半の世界に存在したおろちの意識(視点)が佳子の内部に侵入しているのか、それとも、佳子が頭のなかでつくりだした、おろちを含む門前家の妄想世界に、それをつくりだした本人である佳子が巻き込まれてゆくのか、どちらとも言えない。私の意識が、他人の身体に入り込んでしまったのか、私の妄想した世界や分身に、私自身が取り込まれてしまったのか、この二つの世界、二人の谷村美月という裏表は、どちらが主でどちらが従とは言えないままでねじれて繋がってしまったのだ。佳子は、おろちが時間の内部に存在するための依り代に過ぎないのか、それとも、おろちという存在自体が、佳子の妄想によって可能になった存在なのか、どちらとも言えない(そしてこの事実が、もう一つの主題、原作にもともとあった、姉妹の経験の交換という主題と響き合う)。
この、裏表として重なりながらも分離している二重の世界と、その二重の世界にまたがる二重の存在(二重の私)というモチーフは、『狂気の海』の中原翔子の演じる日本の首相夫人と富士王朝の女王の二役という形でもあらわれている。このような世界(存在)の二重化とそのねじれという主題は、楳図かずおの原作にはないものだ。これは、パラレルワールドではなくて、あくまで裏表の双数的な世界で、これ以上分裂することはないと思われる。日本と富士王朝という裏表一体の世界が、どちらも中原翔子の演じる、「激しい憎悪」を孕んだ表裏一体の狂気の女に、同時に破壊されてしまうという映画が『狂気の海』だとも言えるのだが、ここでも、裏表とはいうものの、どちが表でどちらが裏だとは決定できない。ここで、富士王朝が日本の印画などとは言えないし、女王が首相夫人の無意識だとも言えない。日本は、富士王朝による「霊的国防」によって支えられているのかもしれないし(つまり「日本」の方が富士王朝の幻影なのかもしれないのだし)、首相夫人が密かに核を配備するのは、地下に住む女王の憎悪に操られてのことかもしれない。だが、この二つの世界、二人の人物は、同等でありながらも、どちらかが表であるとすればもう一方は裏でしかあり得ないという意味では、両立するものではないだろう。それは二つで一つなのにもかかわらず、けっして重なりあわず、永遠に分離したままだろう。
だから『おろち』においても、おろちと佳子は両方同時には存在できない。おろちが表の時、佳子は裏であり、佳子が表の時は、おろちが裏である(おろちが、死体となった佳子の額に手をかざし、その「思い」を聞き取る場面を唯一の例外として)。だが、『狂気の海』で「日本」と「富士王朝」として分離していた世界は、『おろち』においては、ふいに目覚める佳子の場面でねじれをもち、メビウスの輪のようにして、裏と表の「門前家」が繋がって重なってしまったのだ。しかし、おろちが外側からの超越的な位置にいてすべてを見て知っているのと逆に、佳子は、登場人物のなかで最も無力で盲目であり、事態をまるで把握しておらず、姉妹の策略のなかで、ただ流れに流されるがままの存在であるという風に、おろちのいる世界と佳子のいる世界は、重なっていると同時に分離しているのだ。同じ門前家でも、おろちのいる門前家と佳子のいる門前家は、裏表の関係にある二つの異なる世界なのだ。まるで、姉と妹とが、経験を交換しあってもなお、姉は姉であり、妹妹であるしかないというのと同じ様に。
とはいえ、表であっても裏であっても、外部にいても内部にいても、知っていても知らなくても、おろち=佳子は状況にはほとんど介入できないという点で共通している。そのような意味では、全てを破壊する「憎悪」の主体であり原因でもある『狂気の海』の中原翔子と、運命に対してなすすべのない谷村美月ともまた、裏表の関係であると言えるだろう。
母と娘(イメージ=呪いの反復)、姉と妹(経験の交換)、おろちと佳子(世界=私の二重化と反転)と、この映画にあらわれる三つの双数性は、たんなる分身や反復の主題のバリエーションではなく、その内実、組成が、それぞれ異なっているのだ。