●『ゼーガペイン』についてもうちょっと(ネタバレ注意)。
●『ゼーガペイン』において、人類を滅ばしたのは人間(ナーダのつくったガルズオルグ)である。そして、人類を滅ぼしたガルズオルグに抵抗する組織(セレブラム)を作ったのは、もともとガルズオルグ(ナーガ)の思想に心酔していた者(のクローン、シマ)と、ガルズオルグ側でつくられた人工の幻体(データ人間、シズノ)である。そして、ガルズオルグという敵によってデータ化を余儀なくされた人間が再び身体化するための技術もまた、ガルズオルグ側で開発されたものだ。つまり、人類を滅ぼしたのも、復活させたのも、もともとはガルズオルグに内在する力であると言える。人類は、もともと人類に内在するガルズオルグ的傾向によって自滅し、しかしガルズオルグ的な傾向によって生み出された技術によってデータ化して延命し、実体化して復活が可能となった。ガルズオルグもまた、ガルズオルグ的傾向によってつくられた技術が内向きに自身を攻撃することによって、自滅した。
●セレブラムもガルズオルグも、もともと同じものの裏表だと言える。どちらもデータ化された人間であるが、そのあり様が裏表だ。セレブラムのデータは個体として保存され、セレブラムは直接実体化できず、ロボットという媒介を用いて敵と戦う。ガルズオルグのデータは集合化され、集合化されたデータが、アビス(男性的)とシン(女性的)という二種類の身体として実体化して戦闘する(とはいえ、シマのオリジナルが個体として存在し、その個体は「裏切る」ことが出来ているのだから、完全に集合化されているわけではないようだが)。ガルズオルグの集合的データが二つの人格として身体化するのと同様、セレブラムの側のロボットも、通常は男女二人組で操作される。アビスとシンが、キョウとカミナギのペアに対称的なのはあきらかだ。アビスとシンが、死んでも何度でも復活出来るのは、二人が集合的データの二つの表現であるからで、一方、セレブラムの側の二人組は個体としてのデータなので、それが消えると死んでしまう。
●ガルズオルグの世界が、無限の時のなかで無限の進化をつづけているというのに対し、セレブラムの世界では、同じ五か月が永遠にループする。この違いは、おそらく彼らのデータを保存している量子コンピューターのスペックの違いにもよるだろうが、集合的であることと個体的であることにも関係がある。個的存在を永遠に存在させる(保存する)にはループさせるしかない。逆に言えば、集合的であることと個的であることの違いは、彼らが存在する「世界の条件(コンピューターのスペック)によって決定されているとも言える。
●一方に、自身を無限に差異化しつづける全体があり、もう一方に同じ個の永遠のループがある。一方の世界での「実」は、もう一方の世界の「虚」となる。セレブラムの世界で実であるキョウはガルズオルグの世界では虚であり、例えばシズノのその逆である。だから、こちら側の世界で、キョウが記憶を取り戻すと、シズノは記憶をうしなわなければならなくなる。
●これはほとんど、実在論唯名論の対立であるかのようだ。この争いを打破するのは、実在論に内在する実在論への批判(シマのオリジナルとシズノ)と、唯名論に内在する唯名論への批判(キョウとカミナギ)の結びつきであると言える。
●キョウは、個的でありながらも二重化した記憶をもつ(二つの16歳の記憶がある)。カミナギは、個でありながら、データの在り処が量子サーバとロボットの二か所に引き裂かれている。キョウは個でありながら二の集合化であり、カミナギは個でありながら二への分裂であろう。個が個として確定されて保存されている限り、それ自身としては変化しない。あるいは、変化は限られている(少数のセレブラントとしか生めない世界)。多少の差はあっても基本的に同じ時間がループするというのは、『シュタインズゲート』で、世界線が移動しても結果はかわらないということに対応する。個の保存のエラーのなかにこそ、個が個であるままに個を超えるチャンスが生じる。そこに、「この世界」への反対側からの二つの作用(シマとシズノ)が絡む。
●実体化の技術はもつが個をもたないガルズオルグ(アビスとシンしか生めない)と、個はもつが実体化の技術をもたないセレブラムは、もともと一方だけでは充分ではない。セレブラムが身体をもつためには、自身の内にガルズオルグ的な技術という「危険(毒)」を呑みこまなければならない。「時間を先にすすめる」ためには、個は個の否定を内に埋め込まなくてはならなくなる。子供をつくって、自分は死ぬ。弟子を育てて、自分は死ぬ。
フロイトによれば、人は「心」においては現実と幻想の区別がない。現実も幻想の同じ強さで心に作用する。では、何が現実と幻想を分けるのかと言えば、それは体であろう。幻想では何度も死ねるが、体は一度しか死ねない。この「一度」が現実である。でもそれは本当に本当なのか。
●でもやはり、こういう見方だと、人は人の方しか見ていないことになる。作中でリアルな海を見たキョウが、「この海がまだ生きているのなら、それを守るためにも戦わなくちゃいけない」という意味の台詞を言う。この海の水は、シミュレートされた舞浜とオケアノスを媒介する「水」とは別のものだ。『ゼーガペイン』で、セレブラムとガルズオルグに分かれた長い戦いを通して人が発見したのはやはり、昨日のも書いたけど、「人と人とが関係(競争、抗争、共闘)する世界」ではなく、「人もその一部であるものとしての世界」なのだと思う。