●『現実批判の人類学』所収の「所有の近代性」(松村圭一郎)を読んでいると、ストラザーンを読まなくては、という気持ちになるのだけど、翻訳はされていないのだった。
近代における「所有」の特殊性を指摘することで、それによって近代批判、あるいは国家や資本主義批判を行うというようなことを、ストラザーンは批判するという。そのようなやり方では、むしろ分断を固定し、強化することになる、と。例えば「知的財産権」について。
≪この知的財産権をめぐる一連のプロセスは、在来の人びとの権利を解放するどころか、欧米の財産形式を普及させているだけだ、という批判を招いてきた。それは、資源の搾取を正当化し、むしろ在来の権利主張を困難にしている。こうした批判的な視点から、市場と国家の両方に対抗して、在来のコミュニティとその知識の集合的な基盤を守る議論がなされてきた。一方、ストラザーンは、この国際的な利害をめぐる議論そのものが社会を分断していると論じる。これらの論争は、それが自明とする複数の極(商取引/共有、個人利益/集合的利益、国民国家/先住者)のまわりに構築されている。さらに、在来の集合的な権利主張の問題は、いかに所有権を特定の社会的アイデンティティ(年長者/年少者、女性/男性、クラン/村)に割り当てるか、という分断につながる。知的財産権をめぐるハイブリッドは、こうして世界的強国(多国籍企業)と在来の人ひどとの区別を永続化させる。≫
●人々が「既存の属性」としての領域や集団という固定した立場に依り、「既成の価値観」に依って、そこから自らの利益を主張するのではなく、利益を主張するという行為を通して新しい「社会単位」をつくりだし、利益を主張する行為がそのまま、社会の(再)組織化であような行為を考えるべきだとし、その実例として、最近になってパプアニューギニア全土にひろがった「賠償」という実践を挙げる。
≪「賠償」は、人への借りの支払いと、彼らが交渉する手続きとの両方を指す。盗みや傷害の償いといった損害に対するものだけでなく、殺人をめぐる命の代替、花嫁の養育に対して婚資で報いることも含まれる。この人とモノのあいだで設定される等価物(多くは金銭)のトランザクションが、在来の物質的価値の秩序を示す。賠償は、人をモノへ、モノを人へと等しく簡単に翻訳する。その手続きは単純で、負債と権利主張は互いの賠償をめぐる関係によって定義される。そこには、すべての知的産物(創意工夫や労働など、エネルギーを使うすべて)が容易に組み込まれる。人とその努力の間に断絶はなく、賠償のプロセス自体が、なにが転移可能か(賠償可能か)を定義する。人の関係は、支払いの流れをとおして可視化され、更新される。関係は、無限に再定義と反復に開かれていて、新しいトランザクションの契機を取り込んでいく。≫
≪集合的アイデンティティは、賠償での役割をとおして差異化される。賠償を「与える/受けとる」という行為によって社会的実体が正当化されるとき、あらゆる社会集団の秩序がその手続きをとおして統合されたり、区別されたりする。このトランザクションは、社会的連続性(アクターがひとつの目的のためにいっしょになる)と社会的不連続性(アクターが支払いの与え手か、受け手として区別される)の両方の源として作用する。こうして賠償のプロセスは社会単位を存在させ、人びとが自分たちを記述するためのコミュニケーションの形式を提供する。≫
●「賠償のプロセス自体が、なにが転移可能か(賠償可能か)を定義する」。要するに、一貫して揺らがない立場(アイデンティティ)がまずあって、その、それぞれ異なる立場が利害(あるいは正しさ)をめぐって抗争する、というのでは駄目で、利害抗争そのものが、新たな区別と、新たな繋がりとをつくりだし、それをとおして新たな集合的アイデンティティが生み出され、社会の編成が組み替えられる、という「抗争(批判)」の形を考えなくてはならない、と。
私が、揺らぐことのない自分自身の本質を主張するのではなく、私とまわりのモノたちや状況との関係のなかで、まわりのモノたちに対して、何度も自分を記述し、記述し直すことを通じて、自分とまわりの関係を変化させ、それによって、自分をも変化させる。≪本質そのものに代えて、本質に意味を与えている媒介者、代理人、翻訳者を導入すれば、世界は近代であることを停止する。≫(ラトゥール)。
●このような流れのなかで、ストラザーンが「均質化するグローバルな制度」を肯定的に考えているというところが面白い。
≪(…)ストラザーンは、均質化するグローバルな制度が消費の差異化によって空前の多様性を生み出してきたというダニエル・ミラーの議論を参照する。この消費の差異化は、帰納的な多様性であり、共通の実践に参加している人びとのあいだにつくられた多様性である。(…)彼女は、ミラーが倫理の成長を与えるような後天的な多様性を歓迎していることにふれ、「消費者になる」ことが「自分自身でつくったものではない物質やイメージをとおして生きている」という意識につながる点を評価する。この「他者をとおして生きる意識」が、将来、財産所有のトランザクションにあらわれる独特な形式の評価につながるだろうと示唆する。≫
●「自分自身でつくったものではない物質やイメージをとおして生きている」という感覚は、芸術のもっとも重要な要素かもしれない。
●前にお会いした時、清水高志さんは、一般に、アングロサクソン系の明快な論理と、フランス系のごちゃごちゃしたまわりくどい(詩的な?)論理の対立がある(というか、ソーカル事件みたいに、アングロサクソン系がフランス系を攻撃している)という風に言われているけど、ポストポスト構造主義的な現在の流れにおいては、その対立しているはずの双方がいつの間にか手を結んでしまっている(そこでドイツ系の影が薄くなる)という感じがある、と言っていて、その例としてストラザーンを挙げていた。