2019-09-23

●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明)、第四章「近代とは何か」より。その一。

●自然と社会、翻訳と純化

《諸現象を「自然」にも「社会」にも還元しないことを指針としてきたラトゥールの議論は、なぜ両者への還元がなされるのかという論点を必然的に伴う。そして、この論点に関わる議論が「近代とは何か」という問いへの応答を構成する。つまり、近代的な知や制度こそが、世界を「自然」と「社会」に分割し、あらゆる現象を両者に還元することを自明視させてきたとされるのである。しかしながら、還元は「近代なるもの」の反面にすぎない。ラトゥールによれば、近代社会では、「自然と社会」「客体と主体」「非人間と人間」などの対句によって表される二つの領域に属するはずの諸要素を混ぜ合わせる翻訳(ないし媒介)のプロセスを通じて両者のどちらにも還元できない様々なハイブリッドを増殖させてきた。だが同時に、翻訳のプロセスは常に否認され、二つの領域は完全に切り離されたものとして「純化(Purification)されてきたのである。》

《「純化」に慣れ親しみ「翻訳」を否認し続けてきた「近代人」とは私たち自身のことであり、その自明の前提の水面下を捉えることが要求されるのである。》

●『リヴァイアサンと空気ポンプ』(ティーブン・シェイピン、サイモン・シェイファー)から参照された、17世紀のロバート・ボイルとトマス・ホッブズの論争より

(…)ボイルは、体系的な科学実験の有力な実践者であり、実験の基づく新たな自然科学を提唱した実験主義者のなかでも最も重要な人物の一人として登場する。一方のホッブズは、ボイルのもっとも強力な論敵であり、ボイルの主張や解釈を否定しようとしただけでなく、実験によって確実な知識を獲得することはできないという全面的な批判を展開した。》

《当時、水銀が溜まった水槽に逆さまに置いた水銀管の一番上にできる空隙(トリチェリ空間」)の発見が、「真空」の存在を肯定する真空論者とその存在を否定する充満論者(すべての空間には物質が充満していると主張する者)の激しい論争を引き起こしていた。ホッブズは充満論者の側に立って、真空論者を激しく批判した。ボイルは、論争のどちらの側からも慎重に距離をとっており、自分たちはただ空気の重量を計っているだけだと主張しながら、空気ポンプを用いた実験による論争の収束を目論んでいた。》

(…)シェイピンとシェイファーは、論争に関わる当時の諸状況をを極めて詳細に記述することで、そこに現代の私たちが自明視する区別が存在しなかったことを鮮やかに描きだしていく。ホッブズの政治哲学には彼の科学理論(自然哲学)と密接に結びついており、ボイルの科学実験もまた実験を支える共同体の構築を通じた政治的含意を色濃くもっていた。両者の主張は、いずれも存在論や認識論や神学や政治的状況を横断する広範なコンテクストに関わっていたのであり、だからこそ激しい論争が展開されたのである。一七世紀中頃まで、「知識」とは、論理学や幾何学などの論証がもつ絶対的な確実性によって保証されるものであって論証的な確実性を持たない「意見」とは厳密に区別されており、実験に基づく見解は「意見」に分類されていたからである。》

(…)ボイルを含む実験主義者たちは、自然に関する学問が論証によって絶対的な確実性を持つことは不可能であると考えた。自然現象をめぐる仮説は常に暫定的で改訂の余地がある。だが、実験によって得られた事実に基づくことで蓋然性を高めることができる。つまり、彼らは、論証的な確実性の代わりに実践的な確実性によって知識を定義し直そうとしたのである。》

《真空論者は「この世界に真空は存在する」という命題を論証しようとしたのに対して、実験主義者は前述した定義に基づいて「このポンプの内部に真空が存在する」という事実をただ示そうとした。事実は命題を論証するものではない。ボイルらは、真空論者と充満論者の論証における対立を無効化するものとして、実験が生みだす事実を提示しようとしたのである。》

《しかし、この「事実」なるものは当時の知識観において必ずしも確かなものではなかった。実験によって空気がほとんどない状態がつくられたように見えても、それは観察者の不確実な感覚の産物であり、真空の存在を論証できなければ確かな知識とはなりえない。(…)彼らの論争は、ある主張が妥当な知識であるかだけでなく、「妥当な知識とはいかなるものであるか」をめぐって生じている。》

《そこで彼らが依拠したのはが、「目撃」や「証言」といった聖書解釈や刑事法に由来する概念である。法廷において、目撃者の証言は絶対的なものではないが、信頼できる人物による複数の証言が一致すれば、十分な蓋然性を持つとされる。実験によって得られる「事実」は、被告人に判決を下すことを判事に保証するような実践的な確実性、つまり集合的な目撃と証言によって妥当なものになるとボイルは論じた。》

《王立協会を中心にして、裕福で信頼すべき地位にある人々が実験家や目撃者や証言者として実験を取り囲む共同体が作られていく。こうした実験を中心とする共同体の形成は、当時において明らかに政治的な含意をもっていた。》

《実験は常に独断と専制に警戒しながら進められ、いかなる単一の権威も---それはまさにホッブズの政治哲学が確立しようとしたものだが---信念を押しつけることはできない。知識の力は実験が明らかにする厳然たる事実から生じるのであって、特権的な個人や組織に由来するものではない。健全な知識が適切に形成され使用されることは有益な政治的効果をもち、競合する意見の自由な応酬は社会の安定を導く。》

(ホッブズにとって)実験結果に基づいて真空の実在を示唆する主張は、単に哲学的に不適切であるだけではなく政治的にも危険なものであった。ホッブズは『リヴァイアサン(一八五一年)において、「非物体的な実体」という観念を軸とする存在論的発想を、秩序の頽廃と災厄をもたらす自然哲学として厳しく攻撃している。彼の唯物論的一元論において、世界は物質で充満しており、物体でないものは存在しない。》

《非物体的なものについて語るものは、それによって君主や法といった世俗的な権威に従わないことを正当化する。》

《実験が特定の経験を生み出し、それを経験した人によっての確実性をもつことは認められる。だが、彼(ホッブズ)にとって、あらゆる人が納得せざるを得ないような確実性は、幾何学や論理学のような論証的知識にのみ許された特権であった。》

ホッブズはまた、ボイルをはじめとする王立協会の実験主義者たちの主張に反して、彼らの実験室が必ずしも開かれた公的なものではないことを批判する。実験室へのアクセスは事実上制限されたものであり、したがって目撃や証言もまた私的なものでしかなかった。実験主義者たちは人々が目撃する事実こそが確実性を生み出すと言うが、もし実験室を本当に開かれた場所になってしまったら、実験する多様な人々の雑多な経験が報告されるだけであろう。信頼に足らないとされた人々を暗黙裡に排除する実験室共同体の排他性、党派性をホッブズは問題にしたのである。》

ホッブズにとって、絶対的な確実性をもつ論証的な知識は、あらゆる人間を強制させる力をもつ。自分たちの利益を守るためには「リヴァイアサン(国家)服従しなければならないという命題(社会契約説)は、理性を持つ人であれば誰でも受け入れる論証的な知識である。だからこそ、服従を強いる主権者は服従する臣民の正当な代理人たりうる。》

《実験共同体は、論証的な知識の埒外にある「真空」などの非物体的実体を持ちだして、論証的な知識に基づく政体に従わない党派的空間を拡張しようとしている。》

●「自然」の成立

《実験共同体の形成においては、空気ポンプや実験家を起点にして様々なアクターが変化している。一連の翻訳を通じて、「真空」は宇宙論的な思弁の対象から実験室で目撃される対象へと変化し、裕福で信頼できる地位にある人々は刑法や信仰をめぐる証言者から実験的事実の証言者へと変化し、実験を取り巻く人々は事実に基づく共同体によって秩序の問題への解決策を体現する集団へと変化する。そして、実験室の内外でこうした人工的な構築作業(「翻訳」)が行われるほど、「事実」は人間の活動から完全に離脱していく(純化)。「目撃」や「証言」といった法的な語彙で語られていた事実は、のちに自然現象や法則の「発見」という言葉で語られるようになっていく。》

《実験を取り囲む信頼すべき裕福な目撃者たちの役割は、その後、検証実験によって事実を精査する同僚の科学者、科学的実践を支持し莫大な資金援助を行う国家行政、それをあてにして日々を営む一般市民たちによって分散的に担われるようになる。(…)ニュースが伝える最新のテクノロジーに期待を抱き、偉大な科学的発見の解説記事を読み、国家予算を科学的探求につぎ込むことに反対しない私たち自身もまた、科学的実践の間接的な目撃者/証言者なのである。》

《従来の論証的知識観において、宇宙論的な「自然」は人間の理性的な思考と完全に融合すべきものであった。ボイルなどの実験家が携わった異種混交的なネットワークの組み替えによって、人間の外部に存在し実験を通じて目撃(「発見」)され、その精緻な理解を漸進的に獲得しうる「自然」なるものがはじめて想定可能になったのである。》

●「社会」の成立

(…)近代国家は、まさに人々(国民)と主権者(国家)を起点としながら膨大な非人間要素(土地、貨幣、兵器、活版印刷、資源、工場、物流等)のネットワークを大幅に組替えていくことによって発展してきた。同時に、そうした媒介と翻訳の実践こそが、人間の群れとそれを代表する主権者のみによって構成される「国家=社会」への純化を可能にする。ホッブズの議論において、極めて形式的かつ抽象的に構想された「理性によって自ら服従する人々」は、一体どうやって互いに結びつくことができたのか。その主な回路が、社会契約論のような論証的知識だけでなく、土地や財産の所有制度、資本主義市場、書物や新聞の大量生産、鉄道や時計による時空間の標準化などであったことは明らかであろう。》

《しかしながら、こうした異種混交的なネットワークの組替えは、最終的には、人間のみの代理関係からなる近代社会(国民国家)の制御下にあるものとして把握される。媒介の働きは捨象され、モノや技術は仲介項に変換される。食糧問題や核兵器や環境問題など、近代社会は人間以外の存在者との関わりにおいて多くの問題を抱えてきた。だが、本当の問題は人間以外の存在者ではない。それは常にそれらを制御し選択している社会の側、私たち自身の問題なのだ。そう言いながら、私たちは日々せっせと自らを無数の非人間的媒介項と接続し続けている。》

●自然と社会の分化と「神」の位置づけ

《ボイルは敬虔な信仰者であったが、自らの宗教的著作を実験室と強く関係づけることはなかった。彼の弟子たちは、神の存在を想起させるあらゆる要素を「自然」から払拭する。その行き着く先は、精妙な自然法則に神の摂理を感じた経験を(論文では一切言及せずに)インタビュー等で言葉少なに語る偉大な物理学者たちの姿であろう。》

ホッブズは市民契約を導く論証的知識を神が人間に与えた唯一の学問だとみなす一方で、霊的世界を語る聖職者たちを批判した。彼の弟子たちは、「社会」の起源の神の関与を一掃する。その行き着く先は、「聖なるもの」を社会の統合に寄与する集合表象や象徴体系として把握することによって、宗教的次元を社会的なものに還元する社会学者たちの姿であろう。》

(…)ボイルとホッブズの論争から一世紀後に展開されたカントの理性批判において、神の実在は私たち人間が原理的に認識できない「もの自体」へと変換される。同時に、外側から世界を捉える権能が、創造主としての神から人間理性(超越論的主観性)へと部分的に委譲される。》

《科学が解明する「自然」が人間の活動とは無関係に存在することは、神の代わりに「人間なるもの」を据えた近代という神学の侵すべからざる基盤であり、私たちにとってそれが覆される可能性を考えるだけでも嫌悪をもよおしてしまう暗黙の前提なのである。》