2019-09-24

●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明)、第四章「近代とは何か」より。その二。

●プレモダン・モダン・ノンモダン

《非近代社会の多くは、自然と社会を区別せずに混ぜ合わせているという理由から「前近代的」と呼ばれてきた。例えば、呪術や妖術は、人間の社会的な想像力を喚起するものにすぎない呪文や呪薬をあたかも自然を動かす力であるかのようにみなすものであり、トーテミズムやアニミズムは、自然の存在を擬人化して不当にも人間の社会的関係のなかに位置づけるものだとされる。》

《例えば、ある村に住む人とそれを取り囲む森林の関係を考えてみよう。彼らにとって森には多くの精霊が住んでおり、儀礼や供儀や互酬といった精霊たちとの多様な関係を軸としながら、森林内の動植物へのアクセスも村内の親族関係も方向づけられている。》

《自然の秩序を変更せずに社会の秩序だけを変更するのは不可能だし、その逆も真実である。》

《さて、その村に、母国の強力な支援を受けた近代主義者たちがやってくるとしよう。》

《彼らはまず、森の精霊という「可視化された思考の対象となった怪物」に狙いをつける。それは非合理的な未開人の信念の産物にすぎず、人々が豊かで自由な生活を送る権利を阻害している。だが、そう主張しても、村人は聞く耳を持たない。近代主義者たちが諦めなければ、彼らはキリスト教を布教し学校を建設し、教科書に載ったボイルやホッブズの偉業を解説しながら何世代にもわたる啓蒙を試みるだろう。》

《やがて、村人の中から学校育ちの若いリーダーが現れる。村の前近代的な慣習と精霊の盲信という偶像を破壊するための長年にわたる闘争をへて、彼は最終的な勝利を収める。都市から招いた材木業者を中心として、森林資材の管理体制が築かれ、伐採された木材は鉄道網をたどって世界各地に輸出され、高級木材として人気を博し、村に多大な収入をもたらす。裕福になった村人たちは観光事業に乗りだすかもしれない。森林には小道と観察小屋が作られ、かつて精霊という主を持っていた動植物は双眼鏡やオペラグラス越しに観光客の目を楽しませる観光資源となる。旅行者の中には休暇で訪れた欧米圏の植物学者がいるかもしれない。彼女は森林の珍しい植物に目を付けて、製薬会社と連携した新薬の開発が始まる。かつての貧しい村は、いまや自然に囲まれた理想的な「スローライフ」を体現する滞在型宿泊施設として、各国のライフスタイル誌や旅行サイトで高く評価されるようになった。》

《この極めて非現実的だがどこか見覚えのある近代化のストーリーにおいては、まさに翻訳を否認する純化の実践が翻訳の実践を加速させ、拡大させている。翻訳を一定の範囲に限定する起点となっていた精霊が盲信として退けられることで、村民と森林を起点にして膨大なアクターを野放図に結びつけて変化させることが可能になる。かつては精霊の住処であった木々は都市の材木業者と結びついて高級木材となり、植物の一部が海外の製薬会社と結びついて新薬の成分となり、動植物は小屋と結びついて観察される対象になり、村人の生活は海外のライフスタイル誌と結びついてスローライフの宣伝となる。村はまさに、「人間と非人間を大々的に混合し、何ものをも括弧に入れずにどんな組み合わせも排除しなかったからこそ成功した」のである。》

モダニズムの観点から非近代社会と近代社会を比較すれば、一方に自然と社会の不当な混合があり、他方には両者の正当な峻別があることになる。》

《これに対して、ノンモダニズムの観点から両者を比較すれば、いずれも翻訳の実践を基礎とした人類の営みである。》

(…)テクノロジーも伝統技術も実践においては人間と非人間が関わる翻訳の過程でしかないにも関わらず、(モダニズム)純化された「自然」と「社会」の一方に両者を振り分けようとする(…)むしろ、科学の強力さは、翻訳を否認することで可能になる野放図な翻訳に起因する。(…)私たちは、「自然」と「社会」を峻別し、両者を極限まで遠ざけるからこそ、科学が解明する「自然」という、社会の外側にある領域からやってくる科学技術によって社会が極限まで変化するという期待や恐れを抱くことができるのである。》