2019-09-25

●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明)、第四章「近代とは何か」より。その三。

●存在様態探求

(『存在様態探求』において)彼はまず、ANTは「いかなる手段を用いても状況を制圧したものが正しい」というマキャベリ主義的発想を学問的に正当化するものだ、という従来からの批判の妥当性をある程度認めるところから議論を始める。》

《「社会」と「自然」への還元を同時に回避するANTの手法では、諸現象の推移を社会的な合理性(対立の調停や合意形成)に依拠して捉えることもできないし、自然の事実を的確に捉える科学的な合理性(理論や技術の精緻化)に依拠して捉えることもできない。この二種類の還元を通じて理性的な審級を確保することになれた人々にとって、ANTが理性的思考を放棄して事実を構築する恣意的な力に訴える粗暴な方法論に見えるのは致し方ないことである。》

《この問題を乗り越えるために、諸アクターの関係性が現実を構築している、というANTの発想を拡張する仕方で、諸アクターの様々な関係の仕方がそれぞれに異なる仕方で構築の善し悪しを判断しうる価値基準ないし適切性条件(Felicity Condition)を生み出していると考える「存在様態論」が構想される。》

《ラトゥールは、ここでもまた、近代的な還元の論理を退けることを通じて非近代論的な分節化を担う存在様態を一つ一つ補捉していく。》

●対応説→指示の連鎖

(…)まずもって標的とされるのは、現実に存在するモノ(Thing)と人間の精神(Mind)の対応(Correspondence)を措定する対応説である。私たち人間の営為においてモノと精神、対象と表象、世界と言語の間の厳密で透明な対応関係を要求する近代的発想を、ラトゥールはマウスの決定操作を想起させる「ダブル・クリック」という言葉で呼ぶ。》

(…)アマゾンの森林をめぐる事例分析で検討したように、科学的実践の中心には世界それ自体の改変がある。この事例において、科学者達は、世界を虚心坦懐に観察してそれに対応する言葉を探すのではなく、世界に一連の変換を加えることで「循環する指示」(同書では「指示の連鎖」(Chains of Reference)と呼ばれる)を作りあげることに従事していた。指示の連鎖が絶たれれば、報告書に書かれた言葉は妥当性を失う。言葉は、言葉以外の諸アクターによる指示の連鎖に後から添えられる。(…)諸アクターが隊列を整えて指示を連鎖させることで、世界と言明の対応が一時的に産出される。》

(詳しくは830日の日記を参照)

《科学的実践は「指示の連鎖」という存在様態[REF(Reference)を生み出す。それは「精神と現実の間をつなぐロープではなく、むしろ、身体が育つほど頭と尾が大きくなっていくヘビのようなもの」だとラトゥールは言う。》

●「自然」の位置づけ→再生産

《次に問題となるのは、(…)「パストゥールが制作する以前に乳酸発酵素は存在したのか」という問いが示すような「自然」の位置づけである。》

《科学的対象としての乳酸発酵素は、指示の連鎖[REF]が形成され維持される限りにおいて実在するのだから、それが構築される前から存在していたわけではない。ただしパストゥールの制作以前に何らかの微生物が存在していて、それがパストゥールの実践と関わりをもつようになったのだろうことを否定する必要もない。それをパストゥールの捉えた乳酸発酵素と完全に同一のものだとみなすことができないだけだ。むしろ、一九世紀のパストゥールとの出会いによって、微生物にも変化が生じたのである。》

《パストゥールと出会う以前から反復されていた微生物の営みは、人間に無限に先行し、人間が後から関わるようになる「再生産」[REP(Reproduction)の様態として把握される。再生産とは、それを通じて諸存在が反復の断絶を乗り越え特定の軌跡を定めることができる存在様態である。モノと知性の透明な対応を絶対視する存在様態[DC(ダブル・クリック)によって、再生産[REP]と指示[REF]は誤って単一の物質(Matter)に合成されてきた。これに対して、存在様態論において、科学的な客観性は指示と再生産という異なる存在様態の交差(REP]・[REF)として捉えられる。》

●主体(精神)→変容

(…)客体(物質)だけでなく、主体(精神)もまた存在様態の誤った合成として捉え直されていく。》

《近代的な「精神」は、心理学や精神分析や司法制度や文学などの領域を横断する諸アクターのネットワークによって構成され続ける「不可視のモもの」(感情、個性、無意識、意志など)を、ネットワークに先行するものとして想定される個々人の「内面」に誤って合成したものに他ならない。「不可視のもの」は、再生産の存在者[REP]と同じく、人間に無限に先行して存在している。[REP]が一貫性を保証するのに対して「不可視のもの」は変容(メタモルフォーゼ)を増幅する存在様態[MET]によって生じる。両者の交差を通じて構成される存在(REP]・[MET)は自らに固有のリズムをもつ。人間は後にそこから滋養を得て、支枝を伸ばし、エネルギーを得ることはできるが、それを取り替え、生みだすことは決してできない。》

●象徴→虚構

《非近代社会が「不可視なもの」を補捉し明示化し儀礼化するための膨大な努力を払ってきたのに対して、近代社会はそれらを「精神」へと押し込める。換言すれば、モノと知性の透明な対応への希求[DC]によって、物質の世界に収まらないあらゆる余剰物が「象徴的なリアリティ」の世界に放り込まれるようになる。とりわけ「常に人間という主体が意味づけ解釈するもの」だと誤解されてきたのが、言語をはじめとする虚構という存在様態[FIC(Fiction)である。》

《象徴論的、記号論的、文芸批評的な「人間」や「文化」への還元は、科学・技術における「自然」への還元と相互依存の関係にある。モノから切り離された象徴的な意味は、モノに帰することができない。だからそれは、人間の「精神」やその集合的な有様(「文化」)によって一方的に規定されるものとなる。》

《これに対して、虚構の存在者[FIC]は、他のアクターの絶えざる配慮がなければ持続せず、他のアクターに完全に依存することによって、当のアクターをそれ自身に依存させるものとして指示される。ただし言語や芸術作品などの虚構の存在者は、人間の主観や想像力によって生みだされるのではなく、反対に、それらが存在しなければ人間は主観や想像力をもつことができない。虚構こそが個々人の「内面」を生みだすのだ。近代人は(…)、非人間的な存在者との媒介項同士の関わりあいの成果を「精神」の産物と取り違えてきただけにすぎない。》

《非言語的な諸アクターはそれ自身において発話=分節化しているのであり、だからこそ言語という虚構[FIC]は、それらの分節化の連鎖に屈曲を与え、諸アクターに新たな形象を与えることができる。ラトゥールの議論において、論文や報告書がアクターと呼ばれることはあっても、言語そのものはアクターと呼ばれない理由がここで明らかになる。言語は極めて独立性の低い存在である。話し言葉はちょっとした発声のミスで単なる音声になり、書き言葉はわずかな書き損じによってただの描線になってしまう。言語を言語にしているのは、言語的要素間の関係だけでなく、非言語的な諸アクターの関係性と結びつきである。だから、言語は、特定のアクターとしてではなく、特定の関係性のあり方(存在様態)として捉えられる。》

《一般に私たち人間を人間以外の存在から区別する最大の特徴の一つとされてきた「言語」なるものは、まさに私たちが他の存在者たちとの媒介項同士の関係に内在していることを示すものとなる。》

●まとめ

《指示[REF]はその連鎖の安定性において、再生産[REP]は断絶を乗り越える持続性において、変容[MET]は変化の筋道の産出において、虚構[FIC]は他のアクターとの相互依存の強度において、構築の良し悪しを問う価値基準(適切性条件)を自ら生みだす。前述したように、種々の存在様態は、人間に限定されない諸アクターが特定の仕方で織りなす関係性の効果である。したがって、意味がそうであるように、価値もまた人間の専有物ではない。価値は世界に外在する視点から与えられるのではなく、世界に内在する諸関係の只中において動的に生みだされる。ここからラトゥールは、ノンモダニズムに基づいて「近代的なるもの」を組み直していくために、様々な存在様態を追跡していく。》

(…)パストゥール以前には乳酸発酵素は存在しなかったという主張は、一見すると、「私たち人間が認識できないものはこの世界に存在しない」ことを含意しているように思われる。だが、存在様態論では、人間に無限に先行しているが、十分に分節化されている存在様態として、再生産[REP]、変容[MET]、習慣[HAB]が挙げられている。私たちはそれらの存在様態に正確に対応する知識を獲得したり、それらを取り替えたり、ゼロから生みだすことはできないが、指示[REF]や虚構[FIC]との接続を通じて、そこからエネルギーを得て支枝を伸ばすことはできる。「不可視のもの」は認識できない。だがそれと関係することはできる。》

《種々の存在様態からなるこの世界は、私たち人間に専有されるものではなく、私たちに遠く先行する存在様態と私たちの身近にある存在様態が様々に交わるなかで現に駆動されているのである。》