2019-02-12

●続き。引用、メモ。『社会的なものを組み直す』(ブリュノ・ラトゥール)から。

●モノの活動が可視化される状況のリスト(これはまさに「物語の作り方」みたいな感じだ)。

《(…)社会的という語を、新たな連関が作られているときにしか見えない流動的なものとして新たに定義すること》。

《(…)行為に与しているモノの存在を明らかにするためには、モノを報告に入れる必要がある。他のエージェントに対して目に見える影響を及ぼさないのであれば、そのモノは観察者にいかなるデータも与えない。モノは黙ったままであり、もはやアクターではない。》

《(…)モノの場合は、どんなに重要であろうと、効率的であろうと、中心的であろうと、必要であろうと、得てして、すぐに背景に退き、データの流れを止めてしまう---そして、その重要性が高まるほど、早く姿を消してしまう。このことが意味するのは、モノが作用を止めるということではなく、その作用の様態がもはや目にみえるかたちで普通の社会的な紐帯と結びつけられないということである。というのも、社会的な紐帯が頼りにしているのは、通常の社会的な力とは違っているからこそ選ばれる力であるからだ。(…)モノは束の間にのみ、相互につながることができるようにみえる。》

《(…)〈モノが話をする〉ようにするために、つまり、モノに、自分自身の記述を生み出させ、他のもの---人間や非人間---にさせていることのスクリプトを生み出させるために、具体的な策を練らなければならない。》

《第一の解法は、職人の作業場、技術者の設計室、科学者の実験室、マーケティング担当者の事前調査、ユーザーの自宅、そして、数々の社会技術に関する論争に見られるイノベーションを研究することである。こうした場では、モノは、会合、計画、見取り図、規則、試行を通じて明らかに複合的な生を得ている。(…)イノベーションや論争の場では、モノが、すぐに不可視の非社会的な中間項になってしまうことなく、報告の対象となる分散的、可視的な媒介子として、他の場より長く維持されうるという点で、どこよりも恵まれた場の一つとなる。》

《第二に、どれほど日常的で、伝統的で、何も言われないものであろうとも、道具や機器は、隔たりがあるために扱い方がわからないユーザーがアプローチするときには、当たり前のものでなくなる---たとえば、考古学の場合に見られるような時間的な隔たり、民族学の場合に見られるような空間的な隔たり、技術習得の場合に見られるような技能の隔たりがある場合を考えてほしい。(…)少なくとも分析する者にとっては、イノベーションと同じ新奇な状況を生み出してくれる。つまり、見知らぬ道具、外来の道具、古めかしい道具、謎めいた道具が、いつものやり方に不意に入り込んでくるのだ。》

《第三の種類の機会は、事故や故障やストライキによって生まれるものである。そこでは、まったく表に出てこなかった中間項が、突如として、一人前の媒介子になる。そして、ちょっと前には完全に自動的、自律的に見え、人間のエージェントがまったくいなかったモノですら、今や、重装備で死のもの狂いに動く大勢の人間に取り囲まれる。(…)ANTにとっては幸いなことに、「リスクのある」モノが近年になって増えていることで、そうしたモノが他のアクターを駄目にしてしまうときにしていることを、聞いて、見て、感じる機会が増えてきた。》

《第四に、モノがすっかり後景に退いてしまったときには、アーカイブ、文書記録、回顧録、博物館の収蔵品などを用いて、モノに光を当て直すことができ、そして、歴史家の説明を通して、機械や装備や道具が生まれた重大局面をいつでも人工的に作り出すことができる---ただし、他の機会よりは難しい。(…)今日に至るまで、技術史は、社会史や文化史の物語られ方をいつだって覆してきたはずだ。》

《最後に、最終手段として、フィクションを頼みにすることで---仮想の歴史、思考実験、「サイエンティフィクション」〔SF〕を用いることによって---今日の堅固なモノを、流動的な状態にするこができ、人間との結びつきが少なくとも想像可能になる。》

●不毛な二分法、不十分な議論。

《(…)自転車が大きな石にぶつかるとき、社会的なものはなにもない。しかし、自転車に乗る者が「停止」標識を守らないときには、社会的である。新しい電話機の配電盤が設置されるとき、社会的なものは何もない。しかし、電話機の色が議論されるときには、デザイナーが言うように、その種の選択には「人間的な側面」があるので、社会的になる。ハンマーが釘をたたくとき、社会的なものは何もない。しかし、ハンマーの像が鎌の像と交わると、「象徴秩序」に入るので、社会的領域に移行する。このように、あらゆるモノが二手に分かれ、科学者と技術者は、そのもっとも大きな部分---効果、因果、物質面でのつながり---を受け持ち、その残りくずが「社会的」次元ないし「人間的」側面の専門家に残される。》

《(…)私たちの行為の進行に与する何百万もの参与子が、以下三つ---三つしかない---の存在の様態を通して社会的な紐帯に加わるしかないというのであれば、到底信じられない。つまり、マルクス流の唯物論に見られるように社会諸関係を「規定」する「物質的下部構造」として加わるか、ピエール・プルデューの批判社会学に見られるように社会的な区別立て(ディスタンクシオン)を「反映」しているだけの「鏡」として加わるか、アーヴィング・ゴフマンの相互作用論敵な説明に見られるように人間の社会的アクターが主要な役を演じる舞台の背景として加わるか、の三つである。当然、こうしたかたちで集合体にモノを参入させることはどれも間違っていないが、しかし、こうしたやり方は、集合体を作り上げる紐帯の束を粗くパッケージ化しているにすぎない。いずれのやり方も、人間と非人間の数々の絡み合いを記述するには不十分なのだ。》