2019-02-13

●紋切り型ではあるが、真善美という古典的な価値の三幅対(三権分立)を考える。これらは、それぞれの領域が自律してあるというより、それぞれの価値の領域の独自性はボロメオの輪のように相互依存している、と考えられる。

たとえば美は、「善にも真にも還元されないもの」として捉えられるとき、その独自性がはじめて明らかになる、と考えるとする(善でも真でもないが、美であるものがある、と)。同様に、善は、真にも美にも還元されないものがある(真でも美でもないが、善であるものがある)というとき、真は、善にも美にも還元されないものがある(善でも美でもないが、真であるものがある)というとき、その独自の領域が確保される、としてみる。

しかし、(神のすでにいない)科学と資本主義の時代である現在では、この三権分立の力のバランスは壊れていて、成り立たっていないと言うべきだろう。科学と資本主義は「真」という価値の絶対性を主張する。真という価値こそが圧倒的に強く、善や美は真に従属するものでしかなくなる。

善も美も、どちらも真によって導かれる。あるいは、真と矛盾するならば、善や美は実現されない(それは偽であり、諦めざるを得ない)、ということになる。真と矛盾しない限りにおいてのみ、真との調停によってのみ、善や美はその(限定的な)存在の可能性を許される。

真こそが、実在(リアル)への通路なのであって、善や美は、せいぜいが、人間的領域にあるもの、人間的な価値(「世界そのもの」ではなく、人間にとって価値のあるもの)にしか過ぎない、ということになる。これが現在を生きる我々の常識的な感覚であろう。

しかしそうではなく、善や美もまた、真と同等の権利をもつ(互いに他には還元不能な)「実在」への通路である、とは言えないだろうか。(神のいない現代において)そう言い得るとすれば、どのような考えがあり得るのか。