●お知らせ。VECTIONによる権力分立についてのエッセイ、第7回をアップしました。
三権分立の脆弱性を修正する (Part V, 2/2):局所的な逆転、相対主義、権力分立維持
https://spotlight.soy/detail?article_id=wi2nculp8
Local reversal, Relativism, Maintaining division of power
https://vection.medium.com/local-reversal-relativism-maintaining-division-of-power-be498ec8ac73
●10月からはじまる東工大の講義(「文学B」)では、一回目は授業ガイダンスを予定している(ただ、それだけでは時間が余ると思うので、文学と当然かかわりがある、近代芸術、現代芸術の流れの基本的な話をしたいと思う)。
で、二回目は、ホメーロス『イーリアス』、オウィディウス『変身物語』、旧約聖書(ここまで紀元前、小説以前)のいくつかの断片を読んで分析し、そこからいきなり20世紀初頭のルゴーネスが聖書を題材として書いた短篇小説(「火の雨」「塩の像」)を詳細に読む。それにより、「小説」というものによって何が(どんなことが)書けるようになったのかという「感じ」を体感してもらえるようにしたいと考えている。
三回目では、チェーホフとボルヘスの短篇をいくつか読むことによって、小説における「描写」と「構造」を体感する、という授業を考えているが、具体的にどの作品を取り上げるかはまだ決まっていない。
そして四回目。ホーソーンの「ウェイクフィールド」、メルヴィルの「バートルビー」、そしてウェルズの「白壁の綠の扉」という、主に19世紀(ウェルズの小説は20世紀に入ってすぐのものだが)に英語(米英)で書かれた、いわば「世にも奇妙な物語」といえる三つの短篇を読むことで、小説によってある種の夢の領域=「心の---潜在的な---脱社会的傾向性(社会問題や人間関係には決して還元されない領域)」の存在が表現可能になったということを示したい。また、「バートルビー」は素朴とは言えないものの、「フェイクフィールド」と「白壁の綠の扉」は現代の眼からみるととても素朴な小説に見えるのだが、その素朴さによってこそ捉えられるものがあるということを言えればいいと思う(「ウェイクフィールド」など数行で要約できるし、もしかしたら本文を読むより「要約」を聞くだけの方が喚起性が高いとさえ言えるかもしれない)。
今月中に、(全14回中の)ここらへんくらいまでの講義の内容をきちんとつめておきたい。