2024-08-17

⚫︎『栞と嘘の季節』(米澤穂信)の中で重要な役割を果たしている「夜の姉妹団」(スティーブン・ミルハウザー、『ナイフ投げ師』所収)読んだ。なるほど、確かに『栞と嘘の季節』と響き合うものを感じるし、この小説はきっと「夜の姉妹団」から発想されたものなのだろうと感じられた。

「夜の姉妹団」は、確かに面白いが、しかし、こういう名短編みたいな小説を読むといつも思うのだが、ちょっと加工しすぎというか、綺麗に整えすぎているように感じられてしまう。途中まではとても面白いのだが、着地点で解釈しすぎというか、意味に落としすぎというか、もっと生々しく、不可解なままでいいのではないか、と。面白いのだが、せっかく面白いのにちょっと残念と思ってしまう。カフカとか、ボルヘスとか、もっと「ナマのままドン」みたいな感じなんだよな、と。「バートルビー」とか「ウェイクフィールド」とかも、あっけないしそっけない。

自分で提示した謎にたいして、自分で解釈を提示してしまっていて、それでも、徹底して詳細に自己解釈をし尽くしてみせるとかならばそれはそれで面白いかもしれないが、短い小説だし、解釈が中途半端で、なんとなくふわっと、それらしい感じで終わる。その「それらしさ」はいらないのではないか、と思ってしまう。

「ナマのままドンというそっけなさ」が生む余韻と、「ふわっとしたそれらしさ」が生む余韻とでは、その余韻の質が違う。後者は感情の表面しか動かさないが、前者は身体の奥の方を揺るがす。

(「なんとなくふわっと」を比喩的な深さとする人もいるが、そうではなく「そっけなさ」こそが深さなのだと思う。)

ただ、このように書きながらも、こういう意見が少数意見であるという自覚はある。多くの人は「それらしさ」がないと納得しないし、身体の奥まで揺り動かされるのはむしろ迷惑だろう。それはそれで否定しないというか、まあ、普通はそうだよなあとは思う。だから、いわゆる「本好きの人」や「小説好きの人」とはなかなか仲良くなれないものだなあと思ってしまう。通好みの小説、みたいのにはちょっとした苦手意識がある。

(『栞と嘘の季節』はミステリであり、初めからあからさまに加工されたものなので、逆に、その加工に収まらない余剰のようなものの方を感じるのだが、「夜の姉妹団」は、いわゆる主流文学として書かれているので、加工された「それらしさ」を余計なものと感じてしまう。)

⚫︎考えてみれば、「バートルビー」のラストにも、一応「デッドストック」という「バートルビーという謎」に対する「作者の解釈」が示されている。でも、その解釈にすんなりと納得できない(その解釈では納得し切れない)からこそ、多くの哲学者が「バートルビー」にかんする本を書く。「夜の姉妹団」にしても、作者が用意した「それらしい落とし所」を無視して(というか、それはそれとして切り分けて)考えてもいいのかもしれない。