2023/08/05

⚫︎映画『女の決闘』(映画美学校フィクション・コース第25期高等科コラボレーション実習作品)の原作、太宰治の「女の決闘」を青空文庫で読んだ。読んだ、といっても、およそ小説を読んだとは言えない読み方で、長い資料の中から最低限の情報を取り出すというような、あるいは、後からじっくり読むとして、まずはその全体の感じをあらかじめざっくりと掴んでおきたいというような、書かれた内容をギリギリ誤解しない程度の粗い読み方でざっと目を通したという感じだが。

映画は、予想外に原作に忠実だと感じた。確かに、映画の後半の展開は、いかにも高橋洋的な、世界の基底部分がズレて、いつの間にか「別の所から来た流れ」が接木されてしまうような構造になっているが、それも、原作の後半で、思いもよらず決闘に勝ってしまった妻が、自首して収監された後、食べることを拒否して自ら死を選ぶ展開を、高橋洋風に(警察や収監を抜きにして)解釈し直したと考えれば、原作の解釈として飛躍した(原作から切断された)というほどではではなく、大胆な解釈ではあるが原作を裏切ってはいないと言えるのではないかとも思う。

だから全体としてこの映画は、高橋洋由来の要素よりも、太宰治由来の要素の方が大きいのではないかと思われた。ある意味で太宰要素をあえて「噛み砕かないまま」、異物としてそのまま映画の中に入れ込んでいる感じもある(太宰のテキストを神託=異言のように用いている感触)。ただし、一つだけ原作に全くみられない、匂わされもしない要素が付け加えられていて、それが「既に亡くなっている不在の母」だろう。映画ではこの「母の存在(不在)」がすごく強く効いているのだが、原作にはその要素はない。

また、原作の小説は、森鴎外が翻訳したヘルベルト・オイレンベルグという無名の作家による短い小説を、太宰治が紹介し、解釈を加えつつ、足りないところを書き足していくうちに、紹介文と思われていたものをいつの間にか自分の小説として、いわば原作を「乗っ取ってしまう」というような形式になっていて、それをまた映画も踏襲している。太宰の原作を、いつの間にか高橋洋風の映画にしか見えないようにして乗っ取ってしまう、という風に。

(高橋洋が原作にない「不在の母」を付け足すのと同様に、太宰もまた、オイレンベルグの小説では決闘する二人の女しか出てこないところを、第三の人物として三角関係の原因となる男=作家自身を付け足している。また、太宰の小説においても、「森鴎外によって翻訳されたオイレンベルグの文章」が、異物のようにごろっと置かれている。だから、「オイレンベルグ→太宰」という構造を「太宰→高橋洋」として反復しているとも言える。)

⚫︎この映画は、一話十数分くらいを単位にして、四話からなり、それぞれのパートを異なる監督が演出している。起承転結というより、起転転転という感じだが、各パートが、前のパートを裏切るような展開で、そのような展開と、パートごとに演出の感じが大きく変化することがうまく対応していると思えた。ただし「この脚本」を演出するとすれば、一人の監督が演出したとしても、普通にそのように演出するだろうから、それが、脚本から要請された演出の変換なのか、それぞれの監督の特性や作家性の発露なのか(それは勿論どちらでもあり、「どちらなのか」というのは程度の問題だが)、という感覚になるところも面白い。同時に、一本の映画が必ずしも一人の監督の意思や技量や性質によって統べられている必要もないのだなあとも感じさせてくれるところも面白い。

(第一話の演出が形式的にすごく端正---色彩の設計の端正さ---であることにまず驚くのだが、第二話になると一転して俳優の演技の強くフォーカスした演出に変わったりして、演出の質の変化が、内容というか、展開の「転換」具合と同期している。第一話と第二話とが同じ家の同じ空間だとは思えないくらい空間の表情も変わる。)

女の決闘 原作:太宰治 脚本・監修:高橋洋 監督:山中隆史(第一話) 大工原正樹(第二話) 鴨林諄宜(第三話) 高橋洋(第四話) - YouTube